>  >  > 清竜人25が提示する新たな“虚構水準”

香月孝史が読み解く、グループの画期性

清竜人25がアイドルシーンに持ち込む、「虚構」のエンターテインメント

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香月孝史
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 シンガーソングライター清竜人と六人の「夫人」からなるアイドルグループ、清竜人25がアイドルシーンに旋風を呼んでいる。グループの活動開始についての情報がリリースされた段階では、「一夫多妻制」というトリッキーな設定にどうしても注目が集まっていたが、デビューシングル『Will♡You♡Marry♡Me?』をはじめとする楽曲やMVが発表され、ライブやイベントが重ねられるにつれ、その小賢しくも見えるようなコンセプトにまつわる言葉よりも、圧倒的な楽しさの方へと重心が一気に移っていったように見える。とはいえ、清竜人25の見せる壮観な景色に「一夫多妻制」というコンセプトが大きく関わっていることは間違いない。また、このグループがアイドルシーンに存在することですぐに想起されるのは、アイドルというジャンルが長々と抱え込んでいる、擬似恋愛という厄介なテーマに対する批評性だ。けれども、おそらく「一夫多妻制」というコンセプトを掲げた清竜人25が痛快なのは、擬似恋愛に対する批評それ自体によるものではない。より根源にあるのはきっと、今日アイドルが抱えているリアリティの水準に、新鮮な光を差し込ませたということの方だろう。

 現在のアイドルシーンの大きな特徴のひとつは、ステージ上のパフォーマンスとアイドル個々の人生とが地続きになった、ある種のドキュメンタリー性である。円堂都司昭氏が『ソーシャル化する音楽』(青土社)の中でAKB48に関して、「ライヴというよりライフが売りものになっている」局面があることを指摘しているように、アイドル個人のパーソナリティへの接近すなわち「ライフの実況中継」は、今日のアイドルというジャンルと不可分のものだ。それはAKB48の映画『DOCUMENTARY of AKB48』シリーズなどに端的に象徴されるだろう。また、「現場」が主戦場になり、アイドル自身によるSNSを通じたアウトプットが必須になった昨今ではそうした潮流はさらに顕著になるし、それは同時にアイドル自身にも幅の広い自己表現の場をもたらしている。他方で、ファンがアイドル個人の実人生の断片に触れる機会も多くなり、アイドルのパーソナリティへの没入度合いをも高まりやすくなる。そんなパーソナリティへの近接の先に、いわゆる「ガチ恋」という単語の浸透もある。

 清竜人25の各「夫人」たちもまた、公式のブログや各自のTwitterのアカウントで自身の言葉を発信しているし、それらの中にはプライベートの時間の過ごし方やグループ加入前の活動など、夫人という「設定」を降りた個々のパーソナリティが綴られたものも多い。その点に関して言えば、彼女たちの人格、私生活にまつわる情報へのアクセスは、他の多くのアイドルと同じように開かれている。そもそも「一夫多妻制」が嘘の設定であることは、受け手は百も承知である。だから、「一夫多妻」のコンセプトそれのみをもって「擬似恋愛」が無効になるわけではないし、メンバー個々のパーソナリティへのアクセスを拒んでもいない。アイドル活動を行なう彼女たちの、生のパーソナリティをステージ上と地続きのものとして追いかけることなど、本当はいくらでもできてしまうはずなのだ。

 それでもなお、清竜人25のパフォーマンスに触れる時、アイドルというジャンルにしばしば感じるような、アイドル個々人の実人生のシリアスさや、痛みと背中合わせの生々しさを一旦忘れて身をゆだねることができる。それは清竜人25というグループのもたらす楽しさが、あくまで七人のつくり上げる明らかな“嘘”の世界の内で成り立っているからだ。別の表現をすればそれは、演劇的と言ってもいい。ファンタジーの世界として作られた清竜人とその夫人たちのパーティーを描いたミュージカルに、受け手を気持ちよく陶酔させ踊らせている。そこでは六人の夫人たちは「夫人」という役柄を演技している存在だし、清竜人もまたその中央に立ちながら「6人の夫人たちの夫」という役柄、つまり夫人たちと同等に嘘の世界の、「理想化された夫としての清竜人」役を演技している。そんなエンターテインメントを、たとえば演劇というフォーマットではなくアイドルという、「ライフの実況中継」がスタンダードになったジャンルにはめ込んだことで、特有の虚実の水準を実現させた。

     
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