『Ghost of Yōtei』クリアまで見届けて思うこと……『Tsushima』から何を受け継ぎ、いかなる“Ghost”を描いたのか

『Ghost of Yōtei』クリアレビュー

 Sucker Punch Productionの最新作である『Ghost of Yōtei(ゴースト・オブ・ヨウテイ)』を、「2020年に発売された『Ghost of Tsushima(ゴースト・オブ・ツシマ)』の続編」とシンプルに位置付けるのは、正しいといえば正しいのだが、個人的にはどこか違和感がある。ゲームのメカニクスこそ共通しているとはいえ、両作は扱う時代も場所も異なっているし、直接的な物語の繋がりはまったくない。

 もちろん、「グランド・セフト・オート」のように、作品ごとに異なる物語を描くシリーズ自体は珍しくはないが、同シリーズが“オープンワールド×クライムアクション”のパイオニアとして確固たる地位を築いている一方で、『Ghost of Tsushima』がリリースされた頃には、オープンワールドゲームは既にある種の飽和状態を迎えつつあり、武士や忍者をルーツとしたアクションについても、どうしても「アサシン クリード」シリーズや「仁王」シリーズを想起してしまう。直近の両シリーズが、まさに“オープンワールド×(ステルスを含む)アクション×封建時代の日本”をフィーチャーした『アサシン クリード シャドウズ』や『Rise of the Ronin』を発表していることを踏まえると、その差はより一層、縮まっているようにも感じられる。

 では、時代も物語も異なる『Ghost of Yōtei』が、『Ghost of Tsushima』から受け継ぐ、他の作品では得ることのできないシリーズとしての魅力、すなわち「血」とは何だろうか?

 本作の開発において、Sucker Punch Productionは、その問いかけを何度も繰り返したのではないだろうか。約25時間に及ぶ蝦夷地での旅を経て『Ghost of Yōtei』のエンディングを目の当たりにして感じたのは、前作よりも遥かに重みを持って迫り来る、「Ghost」という言葉に込められた想いだった。

※株式会社ソニー・インタラクティブエンタテインメントから商品の提供を受けています。

 『Ghost of Yōtei』(以下、『Yōtei』)の舞台となるのは、『Ghost of Tsushima』(以下、『Tsushima』)から約300年後となる1603年の蝦夷地。幼い頃に家族を殺された篤(あつ)が、仇敵である斎藤率いる「羊蹄六人衆」に復讐を果たすべく、彼女に共感する新たな仲間たちとともに、雄大な羊蹄山が見下ろす大自然の広がる大地を旅する。

 『Yōtei』の基本的な流れやメカニクス、操作方法やアクティビティは、その多くを『Tsushima』から受け継いでおり、前作をプレイ済みであればすぐに手に馴染むことだろう。一方で、チュートリアルは前作以上に丁寧に用意されており、これまでに書いた通りに直接的な続編ではないこともあって、本作から入ってまったく問題ない。

新たな武器の数々が生み出す、圧倒的な時代劇バトルアクション

 『Tsushima』からのもっとも分かりやすい変化の一つは、扱う武器の種類が大幅に増えたことだろう。前作では近接武器は刀のみ(ステルス時のみ短刀)、遠距離武器は半弓、長弓に限られていたが、『Yōtei』では二刀、大太刀、槍、鎖鎌が近接武器として、さらに遠距離武器として種子島(火縄銃)を使うことができる。これらの武器はストーリーを進めていくにつれて段階的に使えるようになっていくが、最終的には5種類の近接武器と銃や弓、さまざまな道具を自在に操りながら敵を圧倒するという豪傑ぶりを発揮する。

 ただし、これは敵側も同様であり、さらに武器同士には相性があるため、状況に応じてどの武器を手に取るか、的確に見極める必要がある。一気にできることが増えるため、プレイヤーによっては覚えられるかどうか不安に感じるかもしれないが、各武器において、それぞれの師範と修行をするパートが丁寧かつ物語の一部として設けられているため、少しずつしっかりと馴染ませていくことができるだろう。

 興味深いのは、武器の相性において、基本的には「槍には二刀が有効」といった具合に、ある武器には別の武器が対応しているのに対して、刀に関しては「刀を持て」と、ある種の不可侵領域として位置付けられている点だ(もちろん、他の武器でも戦うことはできる)。 このあたり、開発者側の「刀同士の戦いはゲームの目玉であり、絶対に外すことはできない」という強固な意志を感じさせる。

 筆者のお気に入りは、(刀は大前提として)素早い攻撃で相手を圧倒できる二刀だ。ただスピーディーなだけではなく、一つひとつの動きにしっかりとキレがあるため、刃を次々と振りかざす感覚が最高に気持ち良い。『Tsushima』と同様に、武器のアニメーション周りには相当なこだわりが感じられ、アクション好きであれば、ただ戦っているだけでも充分な満足感を得ることができるだろう。

 『Tsushima』の中核にあったのは、時代劇への過剰とも言える愛情から生まれた、刀によるアクションの圧倒的な切れ味であり、その魅力は武器の種類が大幅に増えた『Yōtei』においてもしっかりと受け継がれている。刀同士が衝突した瞬間のヒリヒリとした緊張感、鮮やかに肉体を貫く刃の手応え、まるでプレイヤー自身も返り血を浴びているかのような感覚に陥るほどの血の雨。こうした印象的な光景の数々が、さまざまな武器を的確に使い分けながら、立ち向かう者を次々と葬る篤の見事な立ち振る舞いによって、さらに引き立てられていく。

 戦いが終わる頃には、数多の屍と、血に塗れた篤の姿が残され、その光景はあまりにも残酷で美しい。それは、まさに『Yōtei』をもっとも印象付ける瞬間である。

孤独な生き様を貫きながらも、大きな共感を与える新主人公「篤」の魅力

 こうした鮮やかなアクションに確かな説得力を与えるのが、本作の主人公を飾る「篤」の、徹底的に冷酷でありながらも慈愛に満ちた生き様である。『Tsushima』の主人公を務めた境井仁が、かつての武士としての誇りと、目的を完遂するために手段を選ばない「冥人」としての生き方の狭間で強く葛藤していたのに対して、幼少期の時点で壮絶な経験とともに家族を失った篤は、影の道を生きることをはじめから完全に受け入れている。

 今ではすっかりミームとして定着してしまったが、『Tsushima』における「誉れは浜で死にました」という台詞は、仁の葛藤を表すうえでも、特に象徴的なフレーズだ。『Yōtei』においてもNPCの口から「誉れ」という言葉が発せられる場面はあるが、篤はまるで興味のない綺麗事を聞くかのように、「誉れなどない」とバッサリ切り捨てる。

 こうした違いはゲームプレイにおいても顕著にあらわれており、前作では(武士らしい)正面突破が基本で、境井仁の感情の変化とともに少しずつステルスアクションの幅が広がっていったのに対して、本作では最初期の時点で特に何の説明もなく(「数の面で不利」くらいの理由で)ステルスが使えるようになっており、それに対して篤は何の抵抗感も抱かない。同時に、篤のモチベーションは「家族を破滅に導いた者への圧倒的な怒り」に他ならず、さながらバーサーカーのように正面突破することも厭わないし、それでも十分に戦うことができる。『Tsushima』では、ロールプレイ的な意味でステルスアクションを使うことに若干の抵抗感があったが、『Yōtei』の場合は、こうした背景があるため、基本的には「いかに手早く戦場を壊滅させるか」のみを考えれば良い。この違いは、本作における「アサシンクリード」や「ヒットマン」のような「暗殺サンドボックス」としての魅力を、より一層高めているようにも感じられる。

 戦場で怒りのままに敵を蹂躙する篤の姿は、彼女のクールな冷酷さをこれ以上ないほどに強調する。だが、一方で、内に秘める繊細な感情においても本作は巧みに描いており、その象徴とも言えるのが、(実質上の拠点でもある)「生家」を舞台とした過去のパートだろう。『Tsushima』においても過去編は存在していたが、本作では「かつて平和な家族として暮らしていた篤たちが、どのように羊蹄六人衆にすべてを奪われたか」をつぶさに描いており、回想する現在の篤の姿も相まって、丁寧に感情移入させるつくりとなっている。そこから垣間見えるのは、誰よりも家族を大切にする篤の本心であり、その愛情は道中で出会うさまざまな仲間たちに対しても、同様に向けられる。

 人間の仲間も数多く登場するが、やはりもっとも印象的な仲間は、物語全体で大きな存在感を示す一匹の狼だ。探索中にやってくることもあれば、戦闘に参加してくることもあり、物語の印象的な場面に表れては、その時々の篤に寄り添ってくれる。興味深いのは、これが篤のペットという位置付けではなく、あくまで「よく現れる」程度の距離感に留められているという点だ。スキルツリーの成長によって「確率を上げる」ことはできるものの、狼の登場をプレイヤー側で完全にコントロールすることは不可能であり、飼いならすことはできない。だが、篤自身もその狼を飼おうとは思っていないし、むしろ自然のままに生きてもらうことを望んでいる。ゲームとしては珍しいつくりであるように感じられるが、実際にプレイしてみると、意外なほどにこのバランスが心地よく、作品のムードにもよく合っているように感じられる。それは、一匹狼として生きるその姿が、篤の生き方とよく似ているからなのかもしれない。

前作からさらに闇へと踏み込む、「すべてを失い、亡霊として蘇った人々」=Ghostの物語

 繰り返すが、『Tsushima』における物語の最大のポイントは、武士としての「誉れ」と冥人としての「外道」の狭間で揺れ動き、蒙古への復讐のために後者の道を生きることを決めた境井仁が、その覚悟のもとに目的を成し遂げ、二度と取り返すことのできな代償を背負う姿にあった。ここでの「Ghost」は、「一度死んだはずの境井仁が、冥人として現世に蘇った」という物語における伝承としての文脈はもちろん、「歴史から抹消された、この地に漂う亡霊」としての意味合いも込められていたように思う。

 一方、『Yōtei』における篤もまた、「かつてすべてを失い、再び戻ってきた」という背景こそ重なってはいるものの、仁のような葛藤は既に乗り越えており、冒頭から徹底して「影」としての生き方を受け入れ、貫いている。羊蹄六人衆への復讐にすべてを費やし、旅路で大量の死体を積み上げていくその姿は、やがて「怨霊」として語り草となり、やはり伝承として蝦夷地へと広まっていく。だが、こうした生き方に抵抗感や悩みを抱いていた仁に対して、篤は特にその二つ名を気にかけることなく、ただ復讐のために殺戮を続けていく。

 あえて言えば、境井仁の物語が「戦いの果てに、徐々に元々あったはずの光が失われていく」という、悲哀に満ちたドラマでプレイヤーを惹きつけていたのに対して、篤の場合は開始時点から闇に飲まれているため、構造的にこうしたコントラストを描きづらいところがある。

 『Tsushima』が、光が闇へと変わっていく物語だとすれば、『Yōtei』が描こうとしているのは、「その末路」と言えるのかもしれない。「怨霊」として恐れられる篤は、復讐の怒りのままに羊蹄六人衆とその部下への殺戮を繰り返し、恨みが晴れるどころか、さらにその怒りが増幅し、もはや自分自身でコントロールできる範囲を超えていく。それは、道中で出会う大切な仲間たちにも大きな不安や恐怖を与えるものであり、作品こそ違えど、『The Last of Us Part II』におけるエリーの姿を想起させる。篤の抱える怒りはゲームプレイにも影響を及ぼし、流れる血の量はストーリーが進むほどに増えていく。その、圧倒的な爽快感と、「でも、これでいいのか?」という感覚の狭間で揺れ動く感情が、プレイヤーを惹き付ける大きな原動力となる。

 その先に待つ未来については、もちろんここでは言及しない。だが、一つ言えるのは、本作のエンドロールを見た後に、改めて『Ghost of Yōtei』というタイトルを見た時、その言葉に対して、プレイする前とはまるで異なる印象を抱き、大きな感銘を受けたということだ。

 これは間違いなく、「Ghost」という言葉をタイトルに掲げ、「すべてを失い、亡霊として蘇った人々の物語」を描くシリーズとしての、見事な続編である。

「没入感」と「ゲームとしての分かりやすさ」のバランスに悩まされるオープンワールド

 蝦夷地を舞台とした美しいオープンワールドが広がる『Yōtei』だが、『Tsushima』が当時の基準でもオープンワールドゲームとしてはそこまで広大なフィールドではなく、その密度を追求していたように、本作においても「オープンワールドの広さ」は優先事項ではないように感じられる。むしろ、(恐らく総面積では前作より大きいのだが)前作よりも狭く感じるという人もいるかもしれない。

 その主な要因としては、『Tsushima』が南から北へと一続きのマップになっていたのに対して、本作ではいくつかの小規模なオープンワールドマップを繋ぎ合わせたような構造になっていることにある。それぞれは地域ごとに分かれており、大きな村や城といった拠点を中心に、前作同様にさまざまなアクティビティが点在している。地域ごとに異なるバイオームや状況(誰が支配しているか)などの個性が明確に与えられているため、より「さまざまな場所を旅している」という感覚を感じられることだろう。個人的には昨今の大規模なAAA作品には若干の疲れを感じてきたところでもあるため、これくらいの規模感がちょうど良い。

 とはいえ、アクションや物語といった『Yōtei』が突出している側面と比較すると、「オープンワールドゲーム」としての魅力に関しては、おおよそ当初の想像通りといった印象ではある。前作同様に、本作では「没入感を生むために、なるべくクエストマーカーなどのHUDに頼らない」というゲームデザインを追求しており、クエストの目標地点までの方向は風が示し、サイドクエストなどについては、道中のNPCとの会話などから自然発生する形式を採用している。ただ、(これは前作でも感じていたことなのだが)風で目標地点を示すという形式は、ユニークで本作らしい試みではありつつも、どうしても分かりづらい上に、目標地点周辺に到着したときに、「どこに行けばいいのか」が分からずに混乱してしまう。サイドクエストのNPCに関しても、拠点でさも意味ありげに待っていたりするので、没入感とゲーム的な分かりやすさのバランスで悩んでいる印象を否めない。

 アクティビティ周りに関しても、ミニゲームの「銭はじき」(これは駆け引きの要素があって、なかなか面白い)や、特定のボスを捜索して倒す「賞金首」といった新たな要素が追加されているとはいえ、基本的には特定のエリアに行って敵を倒すか、プラットフォームパズルに挑むか、ちょっとしたミニゲームを遊ぶかという要素に集約されるため、もう少し選択肢で分岐したりといった、ロールプレイが捗るようなものが欲しかったところだ(『Tsushima』における安達政子や石川先生といった、良い意味でアクの強いNPCとそれに伴う一連のサブクエストが特にないことも、そうした寂しさを増強してしまう)。

オープンワールドから浮かび上がってくる、アイヌの人々の「ただ、そこにいる」存在感

 ややネガティブな面が続いてしまったが、ある一点については、『Yōtei』は明確に、ともすれば前作以上にオープンワールドゲームとしての強い意味を持っていることは強調しておきたい。それは、道中で訪れるアイヌの集落の存在である。

 『Yōtei』の舞台は1603年の蝦夷地であり、当然、そこには多くのアイヌの人々が暮らしている。だが、はじめに明言しておくと、本作のメインストーリーではアイヌについて大きく触れることはない。篤たちの家族は、元々は本土で生まれ、やがて蝦夷地へとやってきた身であり、これは斎藤率いる「羊蹄六人衆」においても同様だ。斎藤は、本土から進出してきた松前藩や幕府に対して強い敵対心を抱いており、蝦夷地の各地を暴力で支配する一方で、兵士を集め、来る戦争への準備を進めている。共通の敵を持っている都合上、篤が松前藩に味方をすることになる場面も少なくなく、基本的には「本土から来た人々が、蝦夷地を舞台に戦いを繰り広げる」という構図が一貫して描かれる。

 一方、恐らくは探索の途中で訪れることになるであろう、アイヌの集落では、こうした喧騒とはまるで無縁かのように、アイヌの人々の「いつもの日常」が描かれている。他の地域では殺戮を繰り広げていた篤も、ここでは戦いに身を投じる場面はほとんどなく、困っている人々の頼み事を聞いたり、耳にした伝承を実際に確かめに行ったり、その文化に触れたりする。これらの要素はメインストーリーとは特に関係がなく、ある種のサイドクエストやアクティビティとして位置付けることができるだろう。

 また、『Tsushima』と同様に、『Yōtei』で描かれる蝦夷地は、彩度豊かな花々や、どこまでも青々と生い茂る草木、色鮮やかな天候描写などによって、美しくはありつつも、どこか「やや美化しすぎたような、まるでInstagramのフィルターを通したかのような風景」が広がっており、個人的には、どこか引っかかりを感じつつも「まぁ、フィクションだし」ということで慣れていったのだが、アイヌの集落に限っては、こうした表現はかなり抑えられているように感じられる。

 こうした、どこか本編からは切り離されているような扱いの背景に、開発者側のアイヌの人々に対するリスペクトがあるのは想像に難くない。それは結果として、「蝦夷地を守るために」という大義名分を掲げながらも、私利私欲のままに暴力を繰り返す斎藤率いる「羊蹄六人衆」と、あくまで個人的な復讐のために彼らに挑む篤、一見すると和平を望んでいるように見えるが、(歴史的な面から)やがてアイヌへの支配を強めていくことが分かっている松前藩という本土の人々に対する、「ただ、そこで暮らしている」アイヌの人々のコントラストをありありと浮かび上がらせる。

 これは、まさにオープンワールドだからこそ実現できたものだろう。さまざまな地域で血みどろの戦いを繰り広げている合間に、ふと、アイヌの人々の日常を思い出す。そして、いつでもそこに行くことができる。

 もちろん、「本土側にバランスが偏りすぎている」という批判はあるだろうし、筆者個人としても、アメリカの会社であるSucker Punch Productionsがどのようにアイヌの文化や歴史を扱うのかという点に興味があったため、もっとメインストーリーに絡ませてほしかったという気持ちはある。とはいえ、結果として生まれた、「あらゆる思惑のもとに蝦夷地で争う本土の人々」と、「いつも通りの日常を続けているアイヌの人々」という構造を前にした時の感情は、それ自体がこれまでに遊んだどの歴史を題材としたゲームでも味わったことのないほどに印象深いものであり、同時に、2025年現在、日本を含め、世界のあらゆる場所で起こっているさまざまな出来事と、つい重ねてしまったりするのである。

 「アメリカ発の、日本の歴史を題材としたAAAタイトル」として、日本を含めた世界中で高い評価と大きな話題を獲得した『Ghost of Tsushima』。その約5年ぶりの続編となる『Ghost of Yōtei』では、その中核にあった「時代劇アクションの切れ味に満ちた爽快感」と「すべてを失い、亡霊(=Ghost)として蘇った人々が闇へと飲み込まれていくダークな物語」を徹底的に磨き上げ、物語上の繋がりがないにも関わらず、シリーズとしての明確な個性を打ち出すことに成功した稀有な作品だ。一般的なオープンワールドゲームとしては若干の物足りなさを感じるとはいえ、印象深いアイヌの描写や雄大な羊蹄山を含む美しいビジュアルを筆頭に、他のシリーズでは決して得ることのできない、唯一無二の魅力をしっかりと生み出している。

 次の物語がDLCになるのか、地続きの続編となるのか、やはり時代も舞台も異なる完全新作となるのかは分からないが、二つの作品によってシリーズとしての明確な存在感をゲームの歴史に刻み込んだ「Ghost」が次に描く物語が、今から楽しみでならない。

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