カラオケの“真の発明者”根岸重一 家族が語る「発明家としての素顔」

日本発の娯楽文化として知られるカラオケ。その発明者を自称する10人以上のなか、ここ約20年で真の発明者として認められたのが根岸重一氏である。
その彼が昨年1月26日に100歳にして亡くなったというニュースは世界中を駆け巡り、同時期に亡くなった鳥山明と同様、日本のポップカルチャーの巨匠として弔意を集めたのは記憶に新しい。さらに今年、米国電気電子学会(IEEE)の「IEEE マイルストーン」に根岸氏が開発したカラオケマシン「ミュージックボックス」が認定。ノーベル賞の受賞者らと肩を並べる人物となった。
しかし、この日本産の偉大な発明が根岸氏によるものだったことや、東京都板橋区大山金井町で誕生した事実を知る人は少ない。そして本来、記念碑が立つべき場所はカラオケボックスとは程遠い静かな住宅地にある『根岸たばこ店』として密かに存在している。
カラオケを地球上で初めて作った男は一体どんな人物だったのだろう。この始まりの地で根岸氏の次女・高野淳美氏、長男・根岸明弘氏から父親のことを回想してもらった。(小池直也)
カラオケの父・根岸重一という男
――この根岸たばこ店はいつから経営されているのですか。

高野淳美(以下、高野):父が12歳のとき(昭和9~10年)に引っ越してきて、それ以来になります。
根岸明弘(以下、根岸):父の母である祖母がタバコ屋を始めました。「この地域で一番売れないタバコ屋」だったみたいですね。祖母、母、姉と続いてきたので歴代店主は全員女性です。コンビニがタバコを売り始める前は繁盛していて、朝7時から夜10時頃まで営業していました。
高野:いまは三代目として私が店をやっています。子どもの頃は、私の姉や弟と3人が並んで、お釣りを出す人・タバコを渡す人・挨拶をする人と役割を決めて手伝っていました。いまタバコは自販機で買っている人が中心で、1日に10人ほどのお客さんしか窓口には来ませんよ。ジュースの方が売れています。こうなったら「板橋にある最後のタバコ屋」を目指そうかなと(笑)。
――カラオケが誕生した工場は、このタバコ屋の裏手にあったのですね?
高野:ちょうど隣の家が建っている場所に工場がありました。
根岸:カーステレオの組み立てをする下請け工場ですね。父が会社をたたんでからは、別の人に貸していました。その人が出て行ってから建物は壊してしまいましたが。
――なるほど。今日はカラオケの発明者であり、おふたりの父親である根岸重一さんについてお伺いさせてほしいのですが、彼はどんな人でしたか。
高野:「まだ世の中にないものは何か?」ということをいつも考えている人でした。寝るときも枕元にメモ帳を置いてアイデアを書き留めたり、突然夜中に起きて試作品を眺めたり。
根岸:いつも家にいなかったですね。子どもたちが寝たあとに帰ってくるような感じでした。
高野:常に何かに熱中している人でした。あと何もしていないときは読書。あらゆる本を読んでいましたが、特に池波正太郎や司馬遼太郎などの歴史小説が好きでした。一方で母は控えめで出過ぎず、それでいて芯はしっかりしていました。父の野望にも寛容で、応援し続けた母もすごかったと思います。

――重一さんはどんな環境で育ったのですか?
高野:1936年に創立された法政中学校の第1期生でした。私立の法政大学第一中に入るために祖父は会社を辞めて転職し、その退職金で入学金を払ったとか。その後、そのまま法政大学に進学します。学生ははじめ徴兵を免除されていましたが、1943年の学徒出陣で戦争へ。神宮外苑で行われた出陣学徒壮行会で行進したようです。
高野:フィリピンだったか、ジャワ島だったか……。アジアで従軍し、戦後はシンガポールで捕虜になっています。「シンガポールのチャンギ国際空港は俺たちが地ならしして作った」「1日スープ1杯で働かされた」と言っていました。
――帰国後はどんな仕事をされていたのでしょう。
高野:大倉組(大成建設の前身)という建築会社に入社し、そこで営業マンとして熱く働いていたようです。その後もオリンパス光学工業(現オリンパス)などの電気系会社で働いていて、その時代は秋葉原の電気街を熱心に営業して回って、お店の人にも気に入られていたそうです。
あまりに熱心なのでお客様も会社ではなく、父に惚れてしまうのです(笑)。それもあり貿易会社を個人でやり始めました。「アメリカに輸出するから」と言われて、子どもたちがラジオの説明書を折って箱詰めした夜もありました。
根岸:販売ルートを確保して、ゲルマニウムラジオ(ゲルマラジオ)や「アトムラジオ」という鉄腕アトムがプリントされたラジオも売っていましたね。手塚プロに出向いて絵の使用許諾を取りに行ったらしいです。でも当時はライセンスの感覚がなく「好きに使えよ」という感じだったと。
高野:思い立ったら即行動の人でしたから。まずディズニーの東京支社へ交渉に行ったら断られて、鉄腕アトムはどうかと考えたようです。キャラクター商品を売り出した走りだったじゃないですかね。
(参考:https://cinehistoriacine.blogspot.com/2017/07/?m=1)


















