『五等分の花嫁』の“原作補完”とイフストーリーを実現 映画、アニメ、原作ファンに捧ぐ『ごときす』プレイのススメ

中野四葉は挫折する

 中野四葉は3度の挫折を経験する。1回目は容姿において。じつは幼少期に風太郎と出会っていた四葉は、その際に「他人から必要とされる立派な人間になる」ことを誓いあう。そして(ほかの4姉妹ではなく)四葉こそが他人から必要とされる人間であると思われるには、姉妹との差別化が必要だと考えるようになった。幼少期に風太郎と出会ったその日、長女の一花と自分自身が風太郎から見分けられていないことにショックを受けた四葉は、見た目の差別化を図ろうと頭にリボンを巻くようになる。しかし頭にアクセサリーをつけるというくらいのことは誰にでもできることであって、じっさいに五月に同じことをされて(五月は星形のアクセサリーを身に着けるようになる)容姿の差別化には失敗する。

 2回目の挫折は学力において。中学入学以降の四葉は、勉強ができる(ことで必要とされる)人間を目指す。やりこんでいたビデオゲームも三玖に譲り、勉学に励む。しかしテストの点数はなかなか上がらず、そればかりかその三玖にまで成績を抜かされてしまう。これが2回目の挫折だ。

 そして3回目が身体能力において。学力で姉妹に抜きんでることをあきらめた四葉は、部活動に奔走した。あらゆる部活動に入部し、それぞれで中心メンバーとしてさまざまな大会で入賞に貢献するほどの活躍をみせる。ところが部活動に専念するあまり成績が低下する一方だった四葉は、ついに落第を言い渡されてしまう。その結果、他校(風太郎のいる旭高校)に転校することになるのだが、ほかの4姉妹も四葉に気を使って一緒に転校する。姉妹の絆を感じる四葉だったが、それと同時に自分が「必要とされる」どころか足手まといな存在であると思い込むことになってしまうのだった。これが3回目の挫折だ。なお厳密には身体能力そのものに自信をなくしたわけではないが、そもそも身体能力の評価は総合的に「必要とされる人間」とは無関係である(少なくとも学生生活においてそれだけでは意味がない)ことを痛感して自身に絶望する。

 こうして自身に絶望した四葉は、以降、他人に対して、異常なほど(ある種の自傷行為に思えるくらい)献身的にふるまうようになる。部活動の助っ人や学校行事の運営に働きづめになり、ときにはキャパオーバーを起こして病院送りになるというのは四葉というキャラクターを特徴づけるエピソードである。

 そんな四葉が最終的に風太郎と結ばれたのはなぜか。それはこうした献身的な振る舞いが、(動機としては歪だったとしても)現実には誰かの支えになるからだ。四葉は風太郎の家庭教師業務にも協力的だった(成績はなかなか上がらないにせよ)ため、そのことが風太郎が家庭教師を続けるきっかけに、そして四葉に惹かれるきっかけとなる。また風太郎に選ばれたことで四葉は(絶望から生まれた)自身の献身性もまた、一つの自分らしさとしてポジティブに肯定できるようになる(ちなみに「四葉の行動が風太郎にとって支えであると感じられていた」シーンは、「完結を迎えてからもう一度見直すとわかる」ようにさりげなく随所に張り巡らされており、これは『五等分の花嫁』という作品の大きな魅力の一つだ)。

 四葉のおかげで風太郎は家庭教師を継続でき、風太郎が家庭教師であり続けたからこそ4姉妹は各々の仕方で成熟することができた。

 あえて言えば「尊い」と言わざるを得ない。しかし、ここで、あえてこんなことを問うてみたい。「四葉は風太郎の(性愛的な)承認がなければ自分を肯定することができなかったのだろうか」と。つまり、四葉以外の4人は風太郎と結ばれなくとも、それぞれのやり方で自分を肯定すること(自分自身を好きになること)ができたのに対して、四葉だけは風太郎に選ばれてようやく自身の肯定性を獲得できた。いや、厳密には風太郎の承認によってさえ、四葉はすぐには自身を肯定しきれなかった。風太郎の「告白」に対する最初の返事は「お断り」だったうえに、本当の意味で自身を肯定したと言える瞬間は、告白から5年が経った結婚式当日ーー姉妹との差別化のために巻いた頭のリボンを捨てた瞬間ーーである。

 つまり四葉が自身を肯定できたのは、(ほかの4姉妹と違って)たまたま受けた他人からの「承認」によってという面が強く、自身の否定性を「克服」したからではない(ほかの4姉妹に比べて「克服」の過程を描いた描写が少ない)のではないか。

 もちろんこれはメインヒロインとその他のヒロインに割く描写量のバランスを取った(「五等分」した)結果であろう。ただ四葉推しの筆者としてはこんなことも考える。「四葉が自力で成長する姿ももっと見たかった」「五つ子ならばほかの4人にできることは自分にもできるはずだ」と。

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