『五等分の花嫁』の“原作補完”とイフストーリーを実現 映画、アニメ、原作ファンに捧ぐ『ごときす』プレイのススメ

『五等分の花嫁』ファンに勧める「ごときす」

 アニメ「五等分の花嫁」シリーズが完結した。完結編となる『映画 五等分の花嫁』は公開劇場数が108館と少なく、また『シン・ウルトラマン』や『トップガン マーヴェリック』といった大作が同時に公開されている時期であるなか、興行収入は10億円に届きそうな勢いをみせている(※1)。

※本稿は『五等分の花嫁』本編のネタバレを大いに含みます

 同作は五つ子の中野姉妹と、中野家に家庭教師として雇われる主人公・上杉風太郎によるラブコメディである。五つ子と風太郎それぞれ内面の「成長」を丁寧に描いているとして男性のみならず女性からも人気の高い作品だ。

 「成長を描いている」というと当たり前のように聞こえるが、別にキャラクターの「成長」を強調していなくても偉大なラブコメはいくらでもある。たとえば高橋留美子の『うる星やつら』(2022年10月よりリメイク版が放送予定)が「成長物語」なのかといわれると、そうとは言い切れないだろう。むしろラムちゃん(メインヒロイン)と諸星あたる(主人公)の関係は序盤からほぼ決まり切っていて、内面の成熟を経て恋が成就するというようなストーリーテリングを必要としていない。『サザエさん』のように「時間が進まない世界」で二人がイチャついたりイチャつかなかったりの様式美を繰り返す。ラブ「コメディ」としてはむしろこの様式美に倣うほうが適切だと言えるかもしれない(ただし押井守が監督を務めた映画『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984年)ではその世界観が「決断の先延ばし」あるいは「成熟忌避」的であるとして皮肉めいた形で描かれている)(※2)。

 『五等分の花嫁』もその設定だけに注目すれば『うる星やつら』のように「止まった時間」のハーレムユートピアを描くのにうってつけであると思える。しかし実際には五つ子と風太郎との距離感は常に変化し続け、結末部で風太郎が告白するまで誰がメインヒロインなのかは明かされない。五つ子として見た目が同じなの「にもかかわらず」誰かが選ばれ、ほかの4人は選ばれないという結末は、人が直面する決断の不可避性と時間の不可逆性を強調しているとさえ言えるだろう(物語を通して「いつまでこのままの関係でいられるだろうか」という問いが随所でなされる)。時間が進む中で人間関係は否応なく変わり、それを受け入れることで五つ子たちは「成熟」していく。

『五等分の花嫁』はどのように成熟を描いたか

 それではこの作品においては何をもって「成熟した」と言えるのか。それは「自分自身を好きになること(自己肯定)」によってだ。『五等分の花嫁』は五つ子が風太郎を好いていく過程を描いた物語であるとと同時に、あるいはそれ以上に、何かしらの原因で自分自身を肯定しきれなかった五つ子が「自分(たち)自身のことを好きになっていく」過程を描いた物語でもある。たとえば大ざっぱに言えば次のようにまとめられよう。

 一女の一花には妥協癖があった。長女として姉妹をまとめるべく俯瞰的な視点を持つ人物であるが、それゆえに自身の(風太郎への)思いを主張することには困難があった。ほかの姉妹に変装して風太郎との仲を妨害するなど、(自己の肯定ではなく)周りの人間関係の「否定」によって思いを叶えようとしてしまうのだ。だが最終的には別の姉妹と結ばれた風太郎たちを祝福する(一花自身と風太郎の距離感を肯定する)ことで成熟していく。

 二女の二乃は過去に固執していた。5人の姉妹が成長していくにつれて外見や性格、お互いの関係が変わるのを恐れていた(物語の中盤まで、二乃だけは髪形を幼少期の頃から変えられずにいる)。だが風太郎が現れたことで5人の関係は決定的に変化し、そしてその風太郎を受け入れる(5人の関係の変化を肯定する)ことが成熟の証となる。

 三女の三玖は、典型的な自己肯定感の低い人物として描かれる。口数は少なく、前髪で顔を隠し常にヘッドホンを身に着けるなどビジュアルにもそれが現れている。だが風太郎への告白を経験し、その他の場面でも自身の意見を主張できるようになる(自分の気持ちを素直に肯定できるようになる)という形で成長が描かれる。

 四女の四葉はお人好しな元気っ娘だが、それはある挫折と自身に対する絶望の裏返しであることが後に明かされる。それに……いや、これは筆者の思い過ごしかもしれないが四葉については詳しく後述する。だがいずれにしろ最終的に風太郎と結ばれるのはこの四葉であり、それによって自身に対する絶望感は払しょくされる。

 五女の五月は自分の夢に葛藤を抱えていた。教師になることを夢見る五月だが、それは元教師であった亡き母に自分を同化させたいだけなのではないかと思い悩むのだ。だが家庭教師である風太郎と関わり続けるなかで、自らの意思で理想の教師像を定めて自身の夢を肯定できるようになる。

 以上のように、何かしら自分自身(の身の周り)に否定材料を抱えていた五つ子がそれを克服し、今の自分を肯定できるようになるという形で成熟が描かれる。この肯定を「自分のことを好きになる」と筆者が表現したいのは、「自分自身を好きになる」というのが明らかに作品のキーワードになっているからだ。たとえば結末部での三玖の台詞やアニメ主題歌の歌詞がそれにあたる。

「私は四葉になれなかったけど 四葉だって私になれない ようやくそう思えるほどに… 私は私を好きになれたんだ(『五等分の花嫁』第14巻第116話)」

「未完成な自分のこと 好きって言いたい(「五等分のカタチ」)」

「好き 自分にも思えるようになりたい(「はつこい」)」

 だから『五等分の花嫁』というのは、五つ子たちが(恋愛を通して)自分自身を好きになる過程を描いた物語であるとして受け取れる。

 そして「自分自身を好きになる」ことから最もかけ離れていたのは誰か。それがメインヒロインの四葉である。

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