“負けヒロイン”からの下剋上。にじさんじ・森中花咲の転機と成長譚
2021年6月までの前半期は、それまでのバーチャルタレント・VTuberシーンとは比べ物にならないほど、人気タレントの脱退・卒業・引退が相次いだ時期であった。
2021年1月8日にイラストレーターのMika Pikazoが手掛けていたピンキーポップヘップバーンが引退したのを皮切りに、電脳少女シロが所属する「.LIVE」で活動していたアイドル部1期生のうち、牛巻りこ、木曽あずき、北上双葉、金剛いろは、八重沢なとりが4月30日をもって卒業となった。
さらに、ホロライブを引っ張りつづけ同事務所の海外人気におおきく貢献した「会長」こと桐生ココが7月1日に、にじさんじからはそのウィスパーボイスと抜群のスタミナを活かした長時間ゲーム配信で多くのファンを産んだ鈴原るるが6月30日に、そしてpetit fleursで活動を共にしていた御伽原江良が3月10日に、相次いで事務所から卒業。それぞれの新天地・進路へと向かっていったのだ。
終わるはずのない夢が次々潰え、交わした約束が露と消えていく、そんな悲しみに暮れるファンが多く生まれたことを昨日のように思いだす人もいるだろう。
そんなシーンの大きな変わり目に、森中花咲はとても象徴的な1枚のアルバムを出した。2021年5月26日にリリースされたソロアルバム『下剋上』である。
御伽原江良がにじさんじを卒業した直後、彼女は配信内でこのように話している。
「本来だったらユニットを組んでいる前提で動いているので、ユニットが終わったら『終わり』なのよ。わたしはいまの活動をする前、とあるオーディションに受かっていてデビューが決まっていたけど、プロジェクトそのものが無くなってしまったのを経験しているの」
「いちからに入って活動する前からそういうことを知っているから、いまのNBCユニバーサルさんのプロデューサーには感謝しかない、本当に優しいなと思う。今後どうしようかという話し合いの時には、辞めてもいいし、続けてもいいしと、選択肢を2個も用意してくれたことに感動してしまった」
3月13日の時点ではこのように感謝の言葉を述べ、10日後の3月23日にはNBCユニバーサル・エンターテイメントからソロデビューすることが告知された。ソロアルバムがどのタイミングから制作がスタートしたかは定かではないが、急ピッチで進んでいったのは想像に難くないだろう。
アルバムをスタートするリード曲「下剋上」は、本アルバムのムードと方向性、加えて森中花咲のスタンスを知ることができる1曲だ。
ヒステリックでも戦い続ける“下剋上”の決意表明とも取れるこの歌は、「森中花咲は負けヒロイン」とファンや同僚らから持たれているこれまでのイメージを覆しにいくことを宣言し、1人のVTuberが1人のシンガーとして成長したことを強く印象付けた。さらには2021年上半期における卒業・引退ラッシュへのアンサーのように響いてしまうほどの強度を持ったのだ。
「下剋上」を作曲した作曲者・てにをはを筆頭にして、ボカロPとして活躍する40mP、Chinozoに加え、アニソンシーンでも名を馳せる中塚武、烏屋茶房、やなぎなぎといったソングライターらが本作に携わっている。
10歳や15歳などのふだんの幼い姿からアーティストとして活動するために22歳の姿へと変わった森中花咲を、いままでの配信活動で見せていたような可愛らしさだけではなく、強いバイタリティ、アンダードッグな精神性、ナイーブな葛藤をも表現しうる1人のチャレンジャーのように、このデビューアルバムは捉えてみせたのだ。
2022年2月12日にはVRプラットフォームのVARKにて自身初となるVR LIVE『下剋上』を開催。5月上旬には長期に渡ったゴールデンウィークのなかで開催された『YouTube Music Weekend』にも参加し、この日のライブを特別編集した映像を届けた。
「強者を叩く」という下剋上の字義は、彼女というフィルターを通して「見返してみせる」「タフに生き抜く」というメッセージへと変換された。多彩なイメージを背負った彼女が今後どのような岐路に立ち、なにを選んでいくことになるのか。その背中は小さくも、大きく見えてくる。