【ネタバレあり】現代に蘇る西部劇から“有害な男らしさ”を考える 『パワー・オブ・ザ・ドッグ』と『レッド・デッド・リデンプション2』の共通点と違い
※本稿は『パワー・オブ・ザ・ドッグ』と『レッド・デッド・リデンプション 2』のネタバレを含みます。
「有害な男らしさ=Toxic Masculinity」という言葉をご存知だろうか。
これは「男はこう振る舞うべき」という伝統的な規範がネガティブにはたらいた結果、同性愛者への差別や、同性同士の過剰なマウンティング行為、異性、同性を問わないハラスメントなど、「男らしさ」が「有害(Toxic)」に機能することを指す言葉で、「有害な男らしさ」という言葉を使う人が北米に増えている。
元は1980年代の男性運動の中から生まれた概念で、現在ではSNSを中心とした「#MeToo運動」などと前後し、マスメディアでも取り上げられるようになっている。特に、2019年にカミソリメーカーのGiletteが、「我々は「ベストな男性」を信じている」という主張とともに公開した、そのような有害さを省みていくCMはTwitterで20万RT、YouTubeで3700万回再生されるなど、賛否ありながら世界的に話題を呼んでいる。
“Boys will be boys”? Isn’t it time we stopped excusing bad behavior? Re-think and take action by joining us at https://t.co/giHuGDEvlT. #TheBestMenCanBe pic.twitter.com/hhBL1XjFVo
— Gillette (@Gillette) January 14, 2019
このように議論が交わされる「有害な男らしさ」と隣り合って生きてきた人は読者の中にも少なくないはずだ。男女問わず、我々の多くがこの被害者であったり、あるいは(無自覚に)加害者だったのかもしれない。軽いノリだと言い訳をした暴力、性的な体験を含む無神経なコミュニケーション。当事者ではなくても、その場で見たり、聞いたりすることはあっただろう。
この「有害な男らしさ」については、まだ現在の価値観と照らし合わせた議論が始まって間もないこともあり、賛否あるだろう。男らしさのすべてが有害と言えるのか、女らしさが有害たりえないのか。議論をすすめるうえでひとつのヒントになるものが、時代を象徴するメディア、なかでも西部劇だ。
特に戦前に発表された西部劇は、アメリカ大陸の雄大な自然、そこから建国を重ねていく姿を一種のナショナリズムをもって描いた、(それが「有害」と断ずるのは早計だが)「男らしさ」のロマンを導くものであり、代表的な西部劇の俳優であるジョン・ウェインやヘンリー・フォンダのような俳優は「男らしさ」のアイコンとなった。『フルメタル・ジャケット』の「ジョン・ウェインはあちら、それとも僕かな?」というセリフはその象徴である。
時代の「男らしさ」により成立した西部劇は、時代の流れによって淘汰されることなく、むしろ姿かたちを変えて現在まで語り継がれている点は、なかなかに興味深い。
すでに90年代にはクリント・イーストウッド監督の『許されざる者』など「男らしさ」に疑問を呈する作品が脚光を浴びていたものの、ここ10年では『ヘイトフル・エイト』『レヴェナント: 蘇えりし者』『バスターのバラード』など、一層批評的な視点から論ぜられた西部劇が続々と公開され、フォーマットとしての再評価が始まっているのだ。
なかでも高く評価され、同時に奇妙なまでに共通点が多い作品が、昨年11月に一部劇場公開され、Netflixで配信された映画『パワー・オブ・ザ・ドッグ』、そして2018年に発売されたビデオゲーム『レッド・デッド・リデンプション2』だ。映画とゲームという媒体の違いこそあれど、2020年前後と直近に公開され、西部劇というフォーマットのみならず、なにより昨今注目された「有害な男らしさ」を直截にテーマとして掲げている点まで、偶然とは思えないほどの共通点を持っている。
それぞれ作品の大まかなあらすじを確認してみよう。
『パワー・オブ・ザ・ドッグ』は1920年代のモンタナ州にある牧場を舞台に、若いカウボーイたちを従える兄のフィルが、気弱な弟のジョージ、そしてジョージが結婚した未亡人のローズと連れ子のピーターとの対立を深めるうちに、ピーターの策略によってフィルが殺されてしまう、という映画である。
対して、『レッド・デッド・リデンプション 2』は1899年~1906年のアメリカ中西部およびキューバを舞台に、カウボーイたちとその家族で構成されたギャング団を従える若頭分のアーサーが、擬似的な家族の崩落と共にかつての仲間に殺されてしまう結末を迎える。
両作に通ずる部分は多い。最もわかりやすい部分として、両作のメインテーマである「男らしさ」が「有害さ」を含め、作中全体に振る舞われていく点だ。
たとえば、『パワー・オブ・ザ・ドッグ』のフィルはピーターの造花を燃やす、ローズを何度も侮辱する、店の客を恫喝する、子分のカウボーイたちと2人を嘲笑するなど、「男らしさ」を誇示するように2人へ暴力を振るっている。『レッド・デッド・リデンプション2』のアーサーもまたギャング団として強盗や銃撃戦を行い、それらを義賊的な「男らしさ」により正当化している。
ギャングのアーサーと、法の範囲内で牧場を経営するフィルを比べるのは失礼かもしれないが、この点はむしろ2人に共通する「義父に拾われた」という境遇から転じた経済的、社会的立場の違いであり、「男らしさ」に対する倫理面の差は薄いように思う。いずれにせよ、2つの作品は西部劇に元来あった「男らしさ」へのロマンを、なかば露悪的に再構築している。
しかし、彼らふたりの「男らしさ」は「男」として生まれたがゆえに先天的に身についたものでは、どうもないらしい……という点も共通している。極めつけは、彼らの筆跡だ。フィルが両親に宛てて書く手紙、そしてアーサーが自身の手帳に記入する日記は、どちらも当時の「男らしさ」から想像もつかない美しい筆記体で、豊かな語彙で語られる。またフィルはバンジョーで一度聞いた音楽を再演したり、アーサーは日記に素人と思えない絵を描けるなど、芸術の素養も十分にある。
つまり、彼らは自分たちの無能さ故に「男らしさ」へ追い立てられたわけではなかった。無論、性別に由来するものでもない。ただ、社会の抑圧、あるいは、自分の理想のために、「男らしさ」を身にまとっているのである。
そして「男らしさ」に加え、もう一つ、隠された西部劇的なテーマを見出すことで、この両作が伝えんとする点が浮かんでくる。
それが、1900年前後という時代背景だ。一般的な西部劇の時代背景は、先住民との紛争(虐殺)、牧場経営、アウトロー、南北戦争など主に19世紀を中心に展開されるものだが、20世紀が近づくにつれアメリカは西部に至るまで鉄道の敷設、インフラの拡充などを通じて「文明化」されていくことで、西部劇のテーマもまた失われていく。その点で、1900年前後は「西部劇の黄昏」とも言うべき時代である。
この「西部劇の黄昏」を象徴するアイテムが、馬を代替するように普及した自動車である。『パワー・オブ・ザ・ドッグ』には中盤から弟のジョージが自動車を購入し、それをフィルが苦い顔で見ているという描写が挿入される。フィルがピーターの策略により倒れた時も、歩くこともままならなかったフィルを運んだのは馬ではなく自動車だった。『レッド・デッド・リデンプション2』では主人公たちのギャング団を追い詰めるピンカートン探偵社が、後日譚となる前作にて何度も自動車を使用している。
ほかにも、服装と体臭もこのジェネレーションギャップを象徴している。『パワー・オブ・ザ・ドッグ』の冒頭、フィルがジョージに対して「自分たちが牧場を引き継いで何年目か」と問うのに対し、ジョージが「兄さんはいつ風呂に入っているのか」とチグハグな質問で返すシーンがある。ほかにも、ジョージは家で披露宴を開く際、兄に風呂に入るよう注文した上、弟を含め招待客は皆スーツ姿だった。汗が染み付いたシャツを着続けるフィルとは対照的な姿である。
『レッド・デッド・リデンプション2』のアーサーが好む服装もフィルと同じく、すっかり擦り切れたようなシャツと頑丈なジーンズ、そして拍車のついたブーツにテンガロンハットだ。作中、主人公たちギャング団が最も反映した都市「サンデニ」を訪れるシーンがあるのだが、この時、やはりサンデニの悪党たちに「酷い身なりだし、臭い」と「野蛮さ」に眉を潜められてしまう。
フィルとジョージ、そしてギャング団とサンデニの住人、両者を対照的にしているものは、馬と自動車、革靴とブーツ、いずれもおよそ19世紀と20世紀を分かつメタファーであり、即ちそれは「野蛮」と「文明」を意味している。両作にはしばしば、20世紀的なモノや人が、19世紀的なモノや人に対して「野蛮」とみなし、「文明」の大義によって排除する瞬間が描かれている。そして、その侵食に対し、19世紀的に生きるフィルとアーサーはさながら濁流に飲み込まれる人馬のごとく無力である。