【ネタバレあり】現代に蘇る西部劇から“有害な男らしさ”を考える 『パワー・オブ・ザ・ドッグ』と『レッド・デッド・リデンプション2』の共通点と違い
最後に、同じテーマに挑んだ両作について論じてきたものの、『パワー・オブ・ザ・ドッグ』には不服な点がある。中盤、川辺のシーケンスを通じてフィルが同性愛者であることがピーター(と観客)に明らかとなり、その内面に対する抑圧の結果として「男らしさ」を過激に振る舞うことが判明するのだが、結果的にピーターはこのフィルの矛盾を殺人に利用する。
具体的には、フィルに積極的に寄り添うようになり、フィルから手製のロープを受け取る約束をする。その時、炭疽病の牛から剥いだ皮を「あなたに憧れて」としおらしくフィルに渡し、さらに、深夜になまめかしくタバコを交換することで、フィル自身の警戒心を徹底的に削いだ結果、炭疽病を感染させるというものだった。
つまりフィルはゲイであったがために殺されてしまう。これ自体、社会的なホモフォビアを強調しているばかりか、さらにその動機が、冒頭のピーターの「息子が母親を守るのは当たり前」という一貫した「男らしい」動機に支えられながら、しかもその手段はさながら毒婦の如く「女らしさ」を強調しているのは、それこそジェンダーバイアスの再生産であり、肯定に過ぎないのではないか、という疑問がある。
もっとも、文中で触れたように、この胸糞悪い演出は意図的なものの可能性がある。既にカンピオン監督はインタビュー内で
「実のところ、バーバンク家の『男らしさ』は(性別でなく)大牧場という(経済的)権力に由来しています。つまり本当の問題は権力なのです(power is always the real issue)。女性でも権力を持った時にそれをどう使うかが重要なのではないでしょうか」
と答えている。むしろ主演のベネディクト・カンバーバッチが
「子どもじみた弁解をせず、男性たちの振る舞いを正していく必要がある」
とラディカルに打ち明けたことが、誤解を招いているかもしれない(参考:https://www.hollywoodreporter.com/movies/movie-features/jane-campion-the-power-of-the-dog-interview-1235010819/)。
ただ、仮にこのアイロニーを導こうとしたと解釈しても、その場合、野蛮と文明、男らしさと同性愛、時代の狭間で葛藤を続けたフィルに対し、ピーターにはそのような人間性もなく、ただ一人、安っぽいサスペンスに登場するサイコパスのように、完全犯罪の瞬間のためだけに生きているというのは、人物造形として軽い。「有害な男らしさ」ではなく「有害な人」の物語になってしまう。
対照的に描かれているのは『レッド・デッド・リデンプション2』のギャング団である。このギャング団にはアーサーを含めた白人男性のほかに、ネイティブ・アメリカンの血を引くチャールズ、メキシコ系のハビア、彼らの妻や子どもに加え、未亡人にしてカウボーイとなったセイディらを含め、男女平等に無法を働くことになる。
ギャング団はリーダーであるダッチの思想のもと、組織の内側では性や人種を問わず平等に家族として扱う一方、外側には「義賊である」という大義を掲げながらも、略奪や襲撃を誰彼構わず行う。この矛盾こそ「有害な男らしさ」が単なる二分法で解決できる事柄ではないこと、より多様かつ複雑な人間のあり方、カンピオンのいう「力こそ本当の問題」であるという姿を描いている。
結局のところ、「有害な男らしさ」の次には「有害な人間らしさ」しか残らないのだろうか。私たちは2人の死の果てにある、全ての「らしさ」と「有害」から降りる未来を、いまこそ真剣に考える必要がある。