外国人YouTuberの僕が、“奇妙ではない”日本のアイデンティティに惹かれた理由

外国人YouTuberの僕が、“奇妙ではない”日本のアイデンティティに惹かれた理由

 世界に向けて日本の魅力を発信し続けている英国人YouTuber、クリス・ブロードによる連載『ガイドブックに載ってない日本』がいよいよスタート。第一回では、いまや国内外問わず多くのファンを抱え、チャンネル登録者数が200万人に迫る『Abroad in Japan』を運営する彼が、なぜ映像制作に関心を持ち、そして日本に惹かれるようになったのか、その原体験が語られた。

第0回:外国人YouTuberである僕が「日本人が見落としている日本の魅力」を伝えるためにできること

ビデオカメラを触ったのは8歳の頃

 1998年、叔母がカナダのバンクーバーで結婚式を挙げることになりました。私の祖父(叔母の父にあたる)は娘の晴れ舞台を楽しみにしていましたが、極度の飛行機恐怖症のため、イギリスからカナダに渡ることができず、参加を断念。そこで、当時8歳だった私に古いビデオカメラを託し、「結婚式の様子を撮影してきてほしい」と頼んだのです。これが初めてビデオカメラを使った経験でした。

 そして翌99年、父が家族旅行を記録するためにビデオカメラを購入したのです。旅行の後、私はこっそりとそのビデオカメラを持ち出し、友人たちと遊んでいる様子を記録したり、近所の森でホラー映画を撮ったり映像制作にのめり込むことに。叔母の結婚式と友人たちとの遊びという、二つの経験を通じて映像を作ることの楽しさを知り、それが今の活動につながっています。

 その後、自分で撮影、編集した映像をブラウン管で流し、近しい人たちに見てもらうことが、私の趣味になっていきました。14歳になるとPinnacle Studio Softwareという編集ソフトを独学で使うようになり、より本格的な映像を作るようになっていきました。

 そのなかで、高校では「メディアスタディ」というコースを選択。そこでは、撮影や編集の技術はもちろん、映画の歴史、また2005年のマイケル・ジャクソン裁判がメディアでどう報道されたのか、という実例をもとにしたメディア分析など、幅広い学びがありました。私は趣味としての活動のおかげで、撮影も編集も経験を積んでいたため、他の生徒より頭一つ飛び抜けた評価をもらっていました。フィルムメーカーとしてのキャリアを意識し始めたのはこの頃です。

 成績がトップだったこともあり、18歳になって進学を考えたとき、大学の映画選考を目指しました。机の上での勉強より、映像制作に没頭して良いものを作りたい、カメラを持って各地を回って見聞を広げたい、という熱意が高まっていたのです。

人生を変えた、飛行機のなかでの“二つの出会い”

 実際に大学に合格しましたが、本当に映画を選考すべきか、実は悩んでいました。というのも、イギリスにはハリウッドのような巨大な映画産業がなく、映画学部を卒業しても、実際に映画業界に進むのは容易ではないのです。実際に、卒業後に全く別の業界でしぶしぶ働いている人も少なくない。私も同じように道を閉ざされ、大学での学びがキャリアに活かされず、関心のない仕事に追われる将来が怖かった。だから、大学入学の直前になってもなお、自分がどの道に進むべきか、決断できずにいたのです。

 そんななか、私は運命を変える出会いをしました。大学が始まる2ヶ月前、バンクーバーの叔母に会いに行く飛行機のなかでのことでした。私の隣に座ったのは、まさにイギリスで映画学部を卒業したばかりだという男性で、「私もこれから進学を予定しているんです」と話すと、「映画の学部はやめたほうがいい」と言う。そこでの学びがフィルムメーカーへの道を開くことは非常に少なく、卒業後、自分のようにチャンスに恵まれず道が閉ざされている人があまりに多いと。それならばより多様な経験をして、そのなかで映像作家を目指す方がいい。イギリスからバンクーバーまでのフライトは、11時間。その間、男性は私を説得し続けました。単に「自分が失敗したから」ではなく、本当に私のことを思って、熱心に語ってくれているのがわかりました。

 飛行機を降りた時、私は、イギリスに戻って進学する気になれず、いっそこのままバンクーバーに残って、より可能性のあるアメリカの映画学校に入ろうかとすら考えました。結局、イギリスに戻り、専攻を決める前にいったん休学をして、旅をしたり、働いたりしながら、本当にやるべきことを見つけることにしたのです。

 もちろん先立つものがなければ、旅行にはいけません。私はウエイターとオフィスワークのダブルワークを経験し、その間、自分はすぐに映像を仕事にしたいのか、他にすべきこと、したいことはないのかと、自問自答を繰り返しました。結局、映像とは「映画」とは違う形で再会するのですが、私はこの時期に、ビジネスと語学の面白さに目覚めていました。映像だけではなく、言葉、文章で物事を伝えるのも好きでしたし、そこで私は専攻を映画から「ビジネスと英語」に切り替えることに決めたのです。日本に惹かれた理由は後述しますが、「日本で英語を教えたい」という目標が漠然と見えてきました。

 そのなかで、私はスイスでスキーインストラクターをしていた当時のガールフレンドに会うため再び機上の人になり、そこでまた、人生を大きく変える出会いを経験しました。

 スイス行きの飛行機で隣に座ったのは40〜50代のカップルで、私に「大学卒業後は何をしたいのか」と尋ねてきました。私は専攻が「ビジネスと英語」であること、「将来的には日本に行って英語を教えたい」と話しました。するとなんと、彼らの娘さんが実際に、日本で英語の先生をしているというのです。そこから彼らは、娘さんが日本がいかに素晴らしい国で、娘さんがどれほど充実した日々を送っているか、ということを熱心に語ってくれました。後に私が参加するJETプログラム(語学指導等を行う外国青年招致事業)のことを知ったのも、この会話がきっかけです。

 私は自分の将来像が見えたような気がしました。大学でビジネスと英語を学び、3年で卒業。その後はJETプログラムで日本に行く、という具体的な道を描くことができたのです。18歳という年齢で自分の未来像を描くことは、容易ではありません。高校までベルトコンベアに乗せられたように、毎日の学校生活を過ごし、そこでいきなり「将来どうしたいのか」「夢はあるのか」と問われる。私も焦り、一度は映画学部に進路を決めましたが、2度にわたる飛行機の中での運命的な出会いにより、将来の方向性が定まったのです。日本に行き、英語を教えながら生活を送るーーそのなかで得られるものは、座学の末に映画業界を目指すことより、遥かに魅力的だと確信しました。

 もちろん、映像への思いを捨てたわけではありません。日本に行くだけでなく、実際に住んで文化に触れ、面白いものを撮影したい。2009年当時、日本を紹介するYouTuberの数は今ほど多くありませんでした。特に日本を拠点にして、英語で日本を紹介するYouTuberは全くいなかった。だったら、自分が趣味を活かしてジャンルの開拓者になれると考えたのです。文化も知ることができるし、英語も教えられる。現在のような特異なキャリアになったのは、このようにさまざまな要素が複合的に重なり合った結果であり、決して、ひとつの決定打があったのではありません。私の人生のすべての出来事が、そこに集約していくようでした。

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