実写映画『ブルーロック』はなぜ成功作と感じるのか 役者の演技と作りに宿る“怪物”を紐解く

日本でも、ハリウッドでも、人気コンテンツが実写化されるたびにその意義や実写化の正解とは何なのか、疑問を抱く日々を送っていた。しかし、まさかその憂いを晴らしてくれたのが実写版『ブルーロック』だったとは。
世界累計発行部数が6,500万部を突破した、漫画『ブルーロック』(原作:金城宗幸、漫画:ノ村優介)。アニメも国外で人気を博し、2024年に公開された『劇場版ブルーロック -EPISODE 凪-』は興行収入15億円を突破した。
W杯優勝のために、世界一のストライカーを生み出す青い監獄「ブルーロック」プロジェクトに集められた300人の高校生フォワードの行方を追う本作。新進気鋭の若手俳優がたくさん起用されるような実写化のしやすさがある反面、超人的なサッカープレーをどう映像化するのかなど、旨みとリスクが同じくらいあった。しかも、原作ではキャラクターの人気も熱く、その再現度も問われる。
しかし、映画を観てみるとそんなものは杞憂だったと認めざるを得ないほどに、実写版『ブルーロック』はすごかった。私以上に原作に対して熱を持つ人と一緒に観に行ったあと、公園でしばらく「誰々がすごかった!」「あそこやばかった!」と小学生のような語彙で興奮して語る時間があり、良い映画にもいろんな種類があるが、鑑賞後にこういう瞬間的に適度な高揚感を持たせてくれる作品のありがたさも身に染みた。ただ、その熱は瞬間的なんてものではなく、時間が経つにつれて、考えれば考えるほど「いや、『ブルーロック』まじで良かったよな……」と真剣に考え始めるわけで、その凄さがどこにあったのかを改めて紐解きたい。
説得力とリアリティの生み出し方

本作は現代を舞台にした、ある種現実的な設定の物語である。しかしそこには、「ブルーロック」という突飛な計画や、常人離れしたスーパープレーといった非現実的な要素が容赦なく絡み合ってくる。この「現実」と「非現実」の同居こそが実写化最大の難所であり、扱いを一歩間違えれば、いわゆる“コスプレお遊戯会”に転落しかねない危うさを孕んでいた。
その点で象徴的なのが、製作陣が撮影に際して掲げていた、日本サッカー協会・Jリーグの全面協力という体制だ。福島県のJヴィレッジという実際のプロ仕様のフィールドを使い、サッカー監修には元日本代表MF・松井大輔を招聘している。松井は取材の中で、原作の超人的なプレーの再現にあたって生身の人間ができるギリギリのスーパープレーを目指したと明かしており、自分自身ができるレベルのプレーであれば役者たちにも到達できるはずだという考えのもと、あくまで人間の身体能力の延長線上に非現実を成立させる方針を貫いていたことを語っている。荒唐無稽な設定を大真面目に、しかし絵空事に逃げずに、この世界で本当にありえる強度に着地させるーーこの一点への徹底したこだわりが、監督・瀧悠輔の画面構成や役者陣の芝居と結びついて、作品全体に地に足のついた説得力を生み出していた。
身体で語るアクションと、それを支えたトレーニング

本作の説得力を語るうえで欠かせないのが、役者陣が実際にボールに触れ、長期間の練習を積んだ上でプレーシーンに臨んでいるという事実だ。松橋真三プロデューサーによれば、主演を含む1000人超のオーディションでは、サッカー経験やビジュアル、演技力に加えて人間性までもが重視され、選ばれたキャストたちはクランクインの約1年半も前からプロサッカー選手の指導のもとで練習を重ねていたという。主演・高橋文哉自身はもともとバレーボール経験者でサッカー未経験だったが、単に高橋としてボールを蹴るのではなく、主人公・潔世一というキャラクターとしてのプレーに仕上げていく必要があったと振り返っており、フォームや癖まで役に寄せていく過程の苦労がうかがえる。

松井の指導方法も興味深い。ボールを持たない状態での動きこそが選手の地力を左右するとして、鬼ごっこの要素を練習に取り入れたという。相手をよけながら動くこと自体がフェイントの練習になるという発想で、遊びの延長のような形で基礎体力とステップワークを同時に鍛えていったそうだ。派手なシュートシーンの裏で、こうした基礎練習の積み重ねがあったからこそ、役者たちの身体がキャラクターの動きを演じるのではなく、自分のものとして持っているように見えたのだろう。もちろん人間の身体能力だけでは再現しきれない部分はVFXやロボットアームを用いた撮影技術で補われているが、その合成の継ぎ目はほとんど感じられない。実写映像とデジタル処理の境界が溶け合い、彼らが本当に成し遂げたプレーなのだと信じさせる作り込みは、本作の技術的な達成として特筆すべき点だ。
また、撮影そのものの質の高さ、カット割りのテンポも本作の完成度を底上げしている。派手なワンカット風の見せ場だけでなく、細かなカットの積み重ねによってテンポを作る場面もあり、そのバランス感覚の良さが、単調になりがちなスポーツ映画のアクションシーンに厚みを持たせていた。
アニメ的セリフをドラマとして成立させる俳優たちの力量

原作漫画『ブルーロック』は、主人公・潔世一の独白が非常に多い作品だ。『鬼滅の刃』における竈門炭治郎ほどではないにせよ、瞬間的なプレーの最中に彼が長々と思考を巡らせる、いわゆる“静止時間”の演出が頻出する。アニメでもおなじみのこの手法ーーほんの一瞬の出来事のはずなのに、主人公の内省だけが異様に長く続く演出ーーは、扱いを誤るとアクションの瞬発力を殺し、シーンをただ間延びさせるだけの諸刃の剣でもある。
ところが実写版は、この“静止時間”の配分が本当に見事だった。内省を入れるべき場面と、テンポを止めずに畳みかけるべき場面を明確に切り分け、必要最小限の言葉と間で潔の思考を観客に伝えてみせる。原作の魅力である「頭脳戦としてのサッカー」を損なうことなく、映画としての推進力もキープするーーこの匙加減の妙こそ、実写版を成功させる鍵と言っても過言ではない。
また、本作の特色のひとつに、いかにも漫画・アニメ的な、いわゆる“カッコつけた”セリフの多さが挙げられる。文字として読めば熱く響くそれらの台詞も、そのまま生身の俳優から発せられれば、途端に浮いてしまう危険性をはらんでいる。高橋自身、本作への向き合い方について、原作をそのままコピーすることが実写化ではないという趣旨の発言を残しているが、これはまさに、台詞や設定を字面通りになぞるのではなく、生身の人間の芝居として成立させることの重要性を語ったものだろう。

その体現として忘れがたいのが、高橋が発する「今いいとこなんだよ」の一言だ。字面だけ見れば少年漫画特有の強がりにも映るこの台詞を、高橋はそこに至るまでの潔の焦燥や意地を表情と声の震えだけで積み上げた末に放ってみせる。声のトーン、間の取り方、視線の使い方……全てが完璧な再現でありながらも、芝居の技術で「アニメのセリフ」が「ドラマの台詞」に変換されていた。この力量こそ、高橋という役者の凄みそのものなのかもしれない。
主演・高橋の凄みを本稿の数行で語り尽くすことはできないが、本作において一つ挙げるとすれば、主演でありながらも良い意味で“埋もれる”ことができる点にある。潔世一というキャラクターは、派手さよりも内に秘めた執着や葛藤で物語を牽引するタイプであり、本来なら地味に見えかねない役どころだ。しかし高橋は、周囲の個性的なキャラクターたちの中に自然に溶け込みながらも、要所要所で確かな存在感を発揮し、物語の軸としての説得力を保ち続けた。約4年という長い準備期間を経て挑んだというこの役に懸ける覚悟が、静かな圧として画面に滲み出ている。




















