『映画ちいかわ』が描いた“恐ろしさ”の正体 問われる“正しさ”と残された呪い

『映画ちいかわ』が描いた“恐ろしさ”の正体

 「ちいさくてかわいいものたち」が、現実社会の縮図のような過酷な世界で、日々の労働に勤しみながら、ささやかな幸せを噛み締めて生きている。2025年ごろ、やたらとかわいい見た目のカブトムシのぬいぐるみを持ち歩く友人がきっかけで『ちいかわ』のアニメを配信で追いかけるように観始めた時から、本作が内包する独特のコンセプト……キャラクターのキュートな見た目に反して、ままならない現実が容赦なく襲いかかるシビアな世界観については、ある程度理解しているつもりであった。『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』を観て、その理解が甘かったことを痛感する。

 筆者は、その擬態型が推しという友人も「とにかくやばい」と語っていたセイレーン編(島編)が映画として公開されることが発表された時から、まっさらな状態で物語を楽しむために、原作を読むのをやめた。そして今回、劇場で鑑賞してから原作も読んだのだが、まあなんとも恐ろしく、哀しく、神話的でありミステリーとして本当によくできた作品だった。では一体そんな本作で描かれた恐ろしさとは何なのか。

ミステリーとしての巧みさが全面的に出た映画化

 まず本作を観ていて驚かされたのは、一つの長編映画としての作劇の圧倒的な巧みさだ。本作は本来、数コマからなるショートストーリーが連なって一つの大きなアークとして形作られている。そして少ないコマという枠組みの中で、読者の想像力による「行間の補完」を前提とした表現が用いられているわけだが、そんな断片的なエピソード群を99分の映画体験へとシームレスに再構築する編成力には唸らされた。原作ではカットされている、コマとコマの間に存在したはずのキャラクターたちの移動や微細な動作、間の取り方が、アニメーションの豊かな動的表現によって補完されるのだが、その選択がとにかくやたら上手いと感じる。

 さらに、普段のテレビアニメのような「1分間の短編」の連続ではなく、長編映画としての確かな連続性と時間の流れが存在するからこそ、島を包み込む不穏な空気がより生々しく浮かび上がってくるのだ。原作漫画やアニメのような、繋がっていても1話ごとに形式的にぶつ切られる短編であれば、一時的なハプニングとして消費できたはずの恐怖。それが長編映画として連続する時間で描かれた途端、まるで海に囲まれた陸地のように逃げ場のない、そして持続的なものへと変貌する。

 映画としての連続性が生む緊張感に加え、本作は優れたミステリーとしての顔も持ち合わせている。その最たるものが、島民たちの造形だ。彼らの顔は葉っぱのようなデザインで統一されており、具体的な表情の差異が一切描かれない。加えて彼らは基本、常に大粒の涙を流して怯えている。顔は濡れ、泣きじゃくる姿を見せられることで、私たちは感情のバイアスによって“かわいそうな被害者たち”という先入観を抱かされてしまうのだ。

 しかし、注意深く観察すれば、物語の鍵を握るヒトハとフタバの顔に浮かんでいるのは、涙ではなく「汗」であったことに気づくはずだ。この絶妙なディテールは、彼らが単なる悲劇の被害者ではなく、何か決定的な隠し事をして焦燥していることを暗示している。表情が読めないからこそ、彼らが何を考えているのかはすべて観客の想像に委ねられ、日常の愛らしい光景の裏に潜む異様さや、集団の不気味さがじわじわと浮き彫りになっていく。

神話でありフォークホラーとしての顔

 本作のプロットは、一見すると黒澤明監督の『七人の侍』のようだ。怪物に脅かされる村(本作においては島)を救うため、外部から腕に覚えのある者たちが雇われ、現地へと赴く。しかし、物語が進むにつれてその様相はひっそりと、だが確実に変容していく。「助けに行った村の住人たちこそが、実は誰にも言えない恐ろしい秘密を抱えており、すべての悲劇の元凶であった」という事実が明かされていく中盤以降の展開は、さながらティム・バートンの『スリーピー・ホロウ』や、近年のフォークホラーを彷彿とさせる。明るくて冒険的で、英雄として活躍するはずだった討伐劇は、いつしか超常的な伝承の生き物と、禁忌に触れた存在の小さき者の業が絡み合う陰惨な物語へと見事に転調していくのだ。

 『スリーピー・ホロウ』において、連続殺人を引き起こす「首なし騎士」がアイルランド伝承の妖精デュラハンをモチーフにしているように、本作における脅威もまた、古くから伝わる神話的存在「セイレーン」である。ここでひとつの疑問が浮かび上がるわけだが、伝承に語られる怪異や神のごときセイレーンと、我々はそもそも対話が可能なのだろうか。

 セイレーンは、ちいかわや島民たちと同じレイヤーに存在する生き物ではない。それは自然の猛威であり、天災に近い存在だ。島民たちがセイレーンに対して行っていた「味の濃いご飯を出す」という行為も、本質的には荒ぶる神の怒りを鎮めるための「供物を捧げる」という原始的な儀式に他ならない。そのような次元の異なる存在に対し、人間(ちいかわ)社会の尺度で「話し合い」による解決を試みる……そしてそれはもちろん、上手くいかない。

対話不全の恐怖と驕りを描く

 本作の恐ろしさはそういった「対話不全における恐怖」にあるのだが、真に邪悪だと思うのは、そうやって本来なら対話不全の存在であるはずのセイレーンが、最初はちいかわたちと言葉による話し合いで「対話」ができてしまうことにある。「話せばわかってくれる相手」であると見せた上で、実はそもそもそういう存在ではない、とこちらを殴ってくる。この揺さぶりが恐ろしい。

 作中では、この「対話」がことごとく物理的、あるいは心理的な要因で邪魔されていく。事情を知ったちいかわたちはセイレーンと和解し、奇跡的に対話が成立したかに見えた。しかし、彼らは討伐に向かうラッコに真実を伝えるタイミングを逡巡によって逃してしまう。直後、断片的な事情を知ったラッコはセイレーンとの戦闘直前で「話し合い」を試みるが、そこにモモンガという純粋なノイズが介入し、対話は物理的に遮断される。セイレーンはラッコを敵と見なして攫い、続く島二郎の説得も虚しく散る。「観客だけが(本作においては一部のキャラクターだけが)両者の事情と誤解を知っている」というアルフレッド・ヒッチコック的なサスペンスの文法に則り、話せばわかるはずの登場人物たちが無情にも破滅へ向かっていくさまを見せつけられるこのシークエンスは、同時に我々が無意識に内面化している「いかなる対立や摩擦も、話し合えば理解し合える」という前提がいかに時にして驕りであり、脆いものかを見事に突きつけてくるからこそ、怖い。

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