『ばけばけ』“他愛もない会話”がなぜ心に残ったのか 失うものこそ多い世界に与えたもの

『ばけばけ』(NHK総合)が、3月27日に最終回を迎えた。思えば本作は、トキ(髙石あかり)が雨清水八雲/ヘブン(トミー・バストウ)に聞かせる「トキの話」だった。
第1話冒頭で、話し始めるトキの顔と共に映し出されるのは、幼少期のトキ(福地美晴)の姿であり、明治の初め、それこそ武士の世が終わり没落士族となり「立ち尽くしていた」頃の父・司之介(岡部たかし)が、丑三つ時に世を呪う姿だった。時代に取り残された人々による恨めしい思いから始まった『ばけばけ』は、立ち尽くすしかなかった人々の人生、あるいは「選ばなかった道」とそこにいる人の思いを照らしながら、他愛もない会話で埋め尽くされた、時に恨めしくも素晴らしいトキの人生を描き続けた。
怒涛の最終週だった。本来主人公の夫・ヘブンの死と、遺されたトキの物語を描く上で、美談で埋め尽くしても誰も違和感を持たないだろうに、敢えてここにきて「ヘブンが失ったもの」をトキに突きつけ、葛藤するトキの姿を数日かけて示した『ばけばけ』は、やはりずっと「何も失わずに生きていくことはできない」ことと、それでも人が、誰かを大切にしたいと思わずにはいられない気持ちを描き続けていたのだろう。そして最後に、これまでトキが「怪談」を通じてやってきた「聞いて伝える」という行為によって、彼女自身が救われる姿を描いていた。

松江編がトキ自身の「家」と個人の葛藤の話を書いていたのだとすれば、熊本編以降の本作は、繰り返しヘブンが家庭と「カクノヒト」、つまり作家業の両立に悩む姿を描いてきた。そして「カクノヒト」こそが彼の本質であり、「元々一つの土地に留まれない」自由なヘブンだからこそできたことだと示していた。
そのため、家族のために個人であるヘブンの本質が損なわれてしまってもいいのか、という葛藤へと繋がっていったのだ。例えば第111話で家族たちが楽しそうに談笑している姿を見つめ、「私の役目は息子や妻や家族の幸せを守ることになった」「物書きとしての私は死んだ」と手紙に綴りイライザ(シャーロット・ケイト・フォックス)からの『フィリピン滞在記』の依頼が書かれた手紙を燃やす場面があった。
その後、錦織(吉沢亮)との再会を描いた第23週での、松江の朝靄の光景を前にした錦織とヘブンの対峙は、「作家としてのあなたは死んだも同然」という錦織の警告も含め、ある種ヘブン自身の家族への思いと個人を巡る葛藤を示したように見えた。その後10年が経過し、「古い」「もう必要ない」と言われ、司之介が、かつて「立ち尽くしていた頃の」自分と重ねるなどもあったが、それでもヘブンは、トキと共に、後のベストセラーとなる『KWAIDAN(怪談)』を完成させる。ここで、なぜイライザは『KWAIDAN』に激高したのかという問いが生まれる。そこにはもちろん、かつての恋愛感情ゆえの嫉妬が全くないとは言えないだろう。だがそれ以上に、錦織と同じくビジネスパートナーとして、「カクノヒト」ヘブンだけを見ていた彼女だからこそ、彼の最後の作品として呈示された『KWAIDAN(怪談)』は、彼の作品であって、彼の作品ではないということを感じていたからではないだろうか。なぜなら『KWAIDAN』は、トキが道行く人々から「怪談話」を聞いて回り、それを彼女の「語り」の力を通してヘブンに伝えてできた作品だからだ。

だから、第121話において、ヘブン自身が『KWAIDAN』を「あなたの話、あなたの言葉、あなたの考え、全て詰まっています。セカイイチホンデス」と言った。ヘブンは最愛の人トキのために、トキが望む、トキそのもののような「世界一の本」を書いた。それは、イライザからすれば、「ヘブンの本」ではなかったのだろう。そう解釈すれば、怒ったまま飛び出していったイライザが、そのままの勢いで丈(杉田雷麟)を通して「トキによるヘブンの回顧録」を依頼することに納得がいく。





















