『センチメンタル・バリュー』謎めいた要素を解説 建築と映画に刻まれた家族の記憶と歴史

第78回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞にあたる「グランプリ」に輝き、きたる第98回アカデミー賞では、作品賞をはじめ8部門で計9ノミネートを果たしている、いま急激に評価を高めているノルウェーなど製作の映画作品、『センチメンタル・バリュー』。俳優と映画監督という立場にある娘と父親の確執が描かれる、家族の物語である。世の家族それぞれに複雑な物語があるように、本作にもまた、さまざまな要素が詰まっている。
ここでは、そんな本作『センチメンタル・バリュー』にちりばめられたものを紐解きながら、この作品が描こうとした謎めいた要素たちが何の意味を持たされているのかを、できるだけ深く考えてみたい。
この作品では、映画『わたしは最悪。』(2021年)で話題となり大きく評価を高めた、主にノルウェーで活動する監督ヨアキム・トリアーと、主演のレナーテ・レインスヴェが再びタッグを組んでいる。ちなみに、レナーテ・レインスヴェは、やはりヨアキム・トリアー監督の『オスロ、8月31日』(2011年)でデビューした俳優でもある。
舞台となるのは、ノルウェーのオスロ。俳優のノーラ・ボルグ(レナーテ・レインスヴェ)が、オスロ国立劇場の舞台で「王女メディア」を演じるところから物語が始まる。彼女の演技は会場の盛大な拍手によって称賛されるものの、その内幕はめちゃくちゃだ。ノーラは、自分の出番を何度も引き延ばした挙句、奇行を繰り返し、関係者を当惑させていく。なぜノーラはここまで、この舞台に立つことに逡巡したのだろうか。
劇中の舞台の題材である「王女メディア」は、その名の通りメディアという王女を主人公とした、ギリシア悲劇だ。古代ギリシアのエウリピデスは、そこに当時としても古くさい“神話的物語”を投影するのでなく、あくまで人間の激情をモダンに描き出している。裏切られた王女が、復讐のために元夫やその家族、そしてついには自分の子どもまで手にかけてしまうという内容はショッキングだ。現代的な目で見ると、それは家父長制を積極的に破壊しようという「ラディカル・フェミニズム」に、異論はあるだろうが本質的な意味で通底する感覚がある。
だから、ノーラはここで単に気まぐれな態度を取っているわけでなく、そうしたメディアの破滅的な精神を身に宿すために、あえて突飛な行動に出ることで積極的に激情に身を委ねたのだと考えられる。そして、それは同時に、この後本作のストーリーにおいて現れる、映画監督でもある父親グスタフ・ボルグ(ステラン・スカルスガルド)の存在を否定し、復讐する意味もあったのではないか。
音信不通の状況から、15年ぶりに長女ノーラと次女アグネス(インガ・イブスドッテル・リッレオース)に再会したグスタフは、ノーラに自身の新作映画の主演を務めてほしいと、自分勝手な打診をする。当然ノーラは、いまさら何を言っているのとばかりに、これを拒否する。ちなみにグスタフは、ノーラの演技を数分しか見ていないと述べるのだが、「王女メディア」役をはじめとして、ノーラがさまざまな役を演じる背景に父への怒りがあったのならば、グスタフが最後まで演技を見ることができなかったことに説明がつく。
15年前の多感な時期に、父親に捨てられた姉妹。夫を見つけ息子を産んで育てている妹のアグネスに対し、ノーラが「よくあんたは、あの環境で捻じ曲がらずに育ったよね」と言うように、ノーラは父親の振る舞いと沈黙によって、家族を持つことに対して恐怖をおぼえるようになったのだと分析できる。ノーラは妻のいる俳優仲間と不倫関係になるように、倫理観を逸脱した生き方をしているようだ。つまり、父親を憎んでいるのにもかかわらず、そんな父親の行動と自分がどこかで似通ってしまっているのが皮肉なのである。
とはいえ、「80パーセントくらいはダメ人間だね」と不倫相手に語るノーラは、倫理を逸脱しているからこそ奔放な魅力を発揮しているのも確かなことなのだろう。そこもまた、老齢でもどこか枯れてないグスタフに重ねられる“ダメさ”だといえる。この点、『わたしは最悪。』にも共通する、「メッシー・フィメール(ぐちゃぐちゃな女性)」としての、ある種の進歩性が描かれているといえよう。
























