『UFO山』がクリスマスに放送された意味 ポスト・トゥルースであなたは何を“信じたいか”

ポスト・トゥルースの時代を見つめて 拭えない不穏感と、残された謎
本作の「人は自分が信じたいものを信じる」というテーゼは、考え方によっては不穏でもある。客観的な事実よりも、個人の感情や信念の方が人々の意見に影響力を持つ、そんなポスト・トゥルースの時代に、この主張は人の心を救う反面、危険性もはらんでいる。信仰が、どれだけ人をよくない方向に駆り立ててしまうかも映し、“信じるもの”が違うもの同士の対立も討論番組で描かれた。
だからこそ、あの2人の行き着いた「お互いに話を聞く姿勢」「可能性はある(否定はしない)」という結論が、この時代を生きていく上で忘れてはいけないアティチュードとして重要なものだと本作は訴えているように感じる。私たちは皆、おそらく何かに囚われてここまでやってきた。それぞれ信じたいものを信じ合おう、それでいいじゃない。ただ、そこで誰かを傷つけたり攻撃したりしてはいけないよ、と。
謎のまま取り残された「シロクマ」を巡る食レポVTRで、レポーターから「それ(シロクマ)は確実に見たの? たぶん見たの?」と聞かれると、少年は「確実ではないけど、たぶん」と答えた。これに対して、レポーターが「おっちゃん、その“たぶん”めっちゃ好きやわ」と言ったあのセリフ、私も好きだなと思った。
「オカルトの本質は飛躍と逸脱」など、金言が印象的な作品でもあった『UFO山』。優しい気持ちと、切ない気持ちが同居するラストにヒューマンドラマとして完成されている……が、やはり例の大学生の連続不審死も、シロクマも、朝日山の“光”も、謎として残しておくにはあまりに不穏すぎる。おそらくそれらが蜂谷の死に関係しなかったという結論でも、朝日山という地域(山)を巡ってシレッとこんなにたくさんの奇怪事件が発生しているのが、なんとも恐ろしい。周期性ということもあって、某作家の描くメイン州のデリーという街に類似性を感じてならない。

特に大学生の不審死に関しては、映像にあった新聞を読み込んでみたものの、なかなかに気味が悪い事件だった。果たして、全てオーバードーズで片付けられることなのだろうか。本稿で説明しようかと思いつつ、文字数も長くなるし野暮だと思って割愛する。ぜひ、気になる方は調べてほしい。それを踏まえて、インタビューにも登場した当時の地域の警察や、事件を取り上げた新聞の書き方、UFOや事件のことを知らない住民の異様さも形容し難い。シロクマに至っては映像に何か映り込んでいるため、確実に何かはいた、とも言える。
中でも、“光”に関しては多くの目撃情報が昔からあるため、無視できない。そしておそらく空も9歳の時の“クリスマスの日”に確認していること、そして番組内で提示された一つの資料に私は着目したい。
それは大正15年の新聞でまとめられた「村落の奇異な現象」と題された部分。そこの記述をまとめると「毎月“24日か25日”になると決まって奇妙な現象が起きる」「村中が停電、ラジオの受信機からは人の声のような獣のような声にも似た、あるいは“鐘の響き”に似た音が聞こえてくる」「長年怪談として囁かれてきたが、近頃は“子供たち”まで『またあの日が来る』と囁きあっている」とのこと。
記事の冒頭で、「UFOって信じる?」という問いも、「サンタを信じるか信じないか」ということに似ている気がする、と記述した。子供の時は信じていたけど、大人になってから信じなくなった人、最初から信じていない人、そして大人になっても信じ続けている人もいる。そんなロマンの塊であり、単なるロマンと片づけるには世界的に資料や歴史、伝承がありすぎている存在としての共通点。……やはり、こんなふうに何かと何かを繋げて意味を見出そうしてしまうのが人間の性なのだろう。そんな『UFO山』の主題を自ら体現してしまいながらも、私はこれからもサンタの存在もUFOの存在も信じていきたいと思う。
■配信情報
TXQ FICTION『UFO山』
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