『魔法少女山田』に内包される人の悪意と恐怖心 ドキュメンタリーの加害性に触れる

「ずっと何も知らずに生きてきて、今思えばそれでよかったんです。ただ知ったからにはもう戻れないといいますか」
冒頭、貝塚陽太という人物が何者かに電話越しに話しながら彼が撮ったであろう“上ばかりを向いている映像”、鯉のぼりが“吊るされている”映像から始まる『魔法少女山田』(テレ東系)。全3話で構成された「TXQ FICTION」シリーズ第3弾の本作は、これまでのシリーズの中で最も生々しい作品だった。物語の内容を振り返りながら、何が“怖かった”のか考えていきたい。
※本稿には『魔法少女山田』全3話分のネタバレが記載されています。
謎の歌の調査から浮き彫りになった、ある男の物語
本作は、貝塚という20歳の青年がたまたまラジオ番組で流れていた「唄うと死ぬ歌」を聴いた際、初めて聴いたはずなのになぜか歌詞もメロディーも全て覚えていることに疑問を持ち、これが何なのか調査し始めるところから物語が動き出す。そのラジオ番組では「夏のホラー特集」としてオカルト研究家がこの音声を持ち出して紹介していた。これまでの「TXQ FICTION」の作品がオカルトホラーだったこともあり、本作もそっちの系統かとこの時点でミスリードされそうになるのだが、蓋を開けてみると『魔法少女山田』は生きている人間の“邪悪さ純度100%”で作られた作品だった。

オカルトの雰囲気が漂った第1話に対し、第2話では件の「唄うと死ぬ歌」の元ネタが収録されている『魔法少女おじさん』というドキュメンタリー作品の内容に迫る。しかし、そこに映されていたのは、決して悪い人ではない、むしろいい人なのだが少しズレている……そんな元小学校教師の山田正一郎の暮らしぶりだった。彼は教育熱心だったが、いじめをした生徒の家に乗り込んだことがきっかけで辞職に追い込まれ、現在は清掃会社で週5日働いて月収18万で生計を立てている。妻子がいたが、離婚済み。彼が魔法少女の格好で活動をしているのは、娘が好きだったから。そんな彼が妻子に会いに行った際、山田に何も言わず彼女たちがいなくなってしまったことの悲壮感たるや。そして、まるで“そういう画が撮れそうだ”とでもいうように許可を得た上で茂みの中からカメラを構えるディレクターの三田。その後、公民館での活動の末に再び教職に戻ろうと試験を受けるも、非合格で復職に失敗した。
結論から言えば、第3話の最後に映されていた幼稚園の防犯カメラから、山田は、レコーダーから流れる自分の歌に合わせて子供たちに歌わせる最中に首を吊って自殺していたことが判明した。これが「唄うと(山田が)死ぬ歌」の真相である。しかし、山田は教職には戻れなかったものの、幼稚園の事務員として働きつつ、魔法少女として子供たちと触れ合う時間があった。防犯カメラからは、衣装を着た後もすれ違った先生や子供の反応からして周囲の人からも受け入れられている様子だった。それなのになぜ自死に至るほど絶望していたのか。それは、もう妻子に会えなくなったからではないだろうか。
ここで、もともと少し違和感のあった『魔法少女おじさん』の再起にまつわる描写の異常性が浮き彫りになる。つまり、三田の“編集”によって時系列が操作されている可能性が見えてくるのだ。実際に、そのようにしているであろうことが辻褄の合わない山田の言動から考えられる。おそらく、本来は自殺を考えるほどの絶望を感じる出来事、つまり妻子の失踪という出来事が時系列の最後にあったのではないかと筆者は推測する。それを踏まえた上で全3話を観終わると、私たちが観てきた『魔法少女山田』そのものが、三田愛子の手がけた“ドキュメンタリー”であることがわかって最悪の気分になる。






















