細田守はなぜ名演出家と言われた? 『ウテナ』『おジャ魔女』『デジモン』で見せた演出術

『デジモン』ほか細田守初期作の演出を分析

『おジャ魔女どれみドッカ~ン!』の象徴的表現

 2002年に携わった『おジャ魔女どれみドッカ~ン!』でも、細田はその演出力を存分に発揮していた。

 とくに有名なのは第40話「どれみと魔女をやめた魔女」で、2020年に実施された「おジャ魔女どれみエピソード総選挙」では全201話のうち第2位に選ばれたほどの人気エピソードだ。

 同エピソードは魔女見習いのどれみが、佐倉未来という女性に出会う話。未来は魔法を使うことをやめた魔女で、その姿からどれみは自分の人生の選択肢についてあらためて考えさせられる。ここで細田が用いているのが、“人生の分かれ道”を示唆するような象徴的表現の数々だ。

 まず冒頭では、道の先が二手に分かれていることを示す道路標識がアップで登場。そして下校中のどれみが分かれ道のどちらを進むのか迷い、右の道に行くことを決めた結果、未来のいるガラス工房にたどり着くのだった。ほかにも矢印が左右に分かれた街の案内標識や、先端が二股に分かれた街灯など、同様の象徴が無数に散りばめられている。

 また、未来はどれみに対して、“何千年もかけてゆっくりと動いている”というガラスの性質を教えるのだが、これはおそらく魔女の寿命が不老に近く、人間とは異なる時間を生きていることを示すものだろう。その一方で映像としては、人間の見る景色と魔女の見る景色がまったく違うことを強調するように、ガラス越しに歪んだ風景がさりげなく何度も描かれるのだった。

 さらに街を歩くどれみを固定カメラのロングショットで捉えることで、生きる道に迷う等身大の人間としての姿を暗示したり、光と影のコントラストで登場人物のネガティブな感情を示唆したりと、演出面の見どころが満載。また2006年公開の映画『時をかける少女』を先取りしている部分も目に付く。すでにこの時の細田は、物語に深みを与える演出家としてかなり高いレベルに到達していたように見える。

さらに進化する演出術……『おおかみこどもの雨と雪』以降

Wolf Children - Special Clip

 その後、細田は各話演出の立場を離れ、監督として活躍するようになるが、“演出家としての細田守”がいなくなったわけではない。ただし分かりやすい象徴的表現は減っていき、より複雑な表現へと進化していったように見える。ここでは2012年の『おおかみこどもの雨と雪』を取り上げてみたい。

 同作は大学生の花が、オオカミとヒトの混血である「彼」と恋に落ち、その子どもを懸命に育てていくという内容。とある出来事で「彼」が亡くなった後、花は子どもの雪と雨を連れて、都市部から田舎へと移り住むのだった。そこで物語の中心となっているのは、突然1人で子育てをすることになった花が“親”として成長するまでの流れだ。

 とりわけ注目すべきは花の成長の描き方だろう。田舎暮らしを始めた花は、本を読んで農業の知識を身に付けようとする。しかし何度やっても思うように野菜が育たない。そんななか、農家の老人・韮崎から直接畑の作り方を学び、泥だらけになって奮闘することで初めて野菜作りに成功し、農家の人々からも受け入れられるのだった。

 そしてそれに続くシーンでは、雪が降り積もった山のなかを転げまわる花と子どもたちの姿が躍動感たっぷりに描写されることに。これは花が成長することで、自然に溶け込んだ暮らしができるようになったことを示唆する表現として解釈できるだろう。

 その一方、父親である「彼」にまつわる場面を反復することで、「人間として生きる」か「おおかみとして生きるか」という子どもたちの決断をドラマチックに描いている点も同作の特徴だ。

息子の雨は幼い頃から自然が苦手で、人間の子どもとして生きていた。しかし雪の降り積もった山で遊んだ帰り道、突然狩りの本能に目覚める。そこで足を滑らせて川に落ちるのだが、この展開は大雨の日に狩りをしようとして死亡し、水路のなかで発見された「彼」を連想させるものとなっている。しかし雨は「彼」と違って生き延びた上、これをきっかけとして野生的な生き方へと傾いていくのだった。

 それに対して姉の雪に関しては、台風で学校に閉じ込められた際、クラスメイトの男子・草平に自分の正体を告白するというシーンがある。かつて草平のことを傷つけたオオカミは自分だと打ち明け、教室のカーテン越しに変身してみせるのだ。ここでは明らかに「彼」が花に自分の正体を打ち明ける場面が反復されている。

 キャリア初期の演出と比べると、同作の演出にはわざとらしさを与えるところがほとんどなく、表現が物語の内容と密接に結びついている。それは監督として作品全体意をコントロールできるようになったことと無関係ではないだろう。

 また同作は奥寺佐渡子との共同脚本ではあるものの、細田が初めて長編作品で脚本に携わった作品でもある。そうした意味でも、細田がより深い演出を行えるようになった転換点と言えるかもしれない。

 なお最近の作品でも、細田の演出家としての力は衰えていない。たとえば2021年の『竜とそばかすの姫』では、主人公・すずの背景に“川”を大きく映し出すという印象的な演出が見られる。

 すずの母親は、彼女が幼い頃に見ず知らずの子どもを助けるため川に入っていき死亡したという設定。すなわち彼女にとって川は母の命を奪ったトラウマの対象であり、誰かを助けるために危険に飛び込んでいくという自己犠牲の精神を象徴する場所でもある。作中では、そんな両義性をもった川がいつでもすずのすぐそばに寄り添っているのだった。

 ただし最新作『果てしなきスカーレット』に関しては、「同ポジション」や固定カメラのロングショットなど、お馴染みの演出法がほとんど見られない特殊な作品となっている。それでいて「竜」や「見果てぬ場所」といった象徴性を帯びたものが作中に多数配置されており、あえて解釈の幅を広く取った物語となっているようにも見える。すなわち同作は細田のキャリアにおける新境地であり、新たな挑戦に挑んだ作品だったのかもしれない。

細田作品は「二面性」に注目すべき?

 そもそも細田のキャリアを振り返ると、独自のテーマ性を追求する「作家としての細田守」と、物語を魅力的に見せようとする「演出家としての細田守」という側面があったように思われる。これは言い換えると、「何を描こうとするか」と「いかに描こうとするか」という対立だ。

 たとえば『少女革命ウテナ』の第29話「空より淡き瑠璃色の」で元々の脚本に納得いかず、独自の話を作ったという逸話があることは有名だが、『ワンピース THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島』も原作における登場人物たちのあり方を大胆に再解釈するような物語となっていた。こうした作品群の面白さは、演出家としての技術と強烈な作家性がぶつかり合っていたことにある。

 とはいえ最近の細田作品に関しては、「何を描こうとするか」という部分ばかりが取り上げられており、「いかに描こうとするか」という演出面があまり顧みられていないような印象を受ける。細田作品の価値をより深い目線で評価するためにも、その両面に目を向けていくことが必要なのではないだろうか。

 『果てしなきスカーレット』で新境地を見せた細田は、次にどんな作品を手掛けるのか。日本のアニメ界を支える才能の今後に注目していきたい。

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