チェット・ベイカーは何度でもよみがえる 『レッツ・ゲット・ロスト』を今観る意義

チェット・ベイカーは、何度でもよみがえる。あるときは、ジャズ黄金期における稀有な白人トランペッターとして。あるいは、時代を超えて人々を魅了するスイートな歌声を持つジャズシンガーとして。またあるときは、思春期の少年少女たちがいつの時代も憧れずにはいられない「ヴァルネラビリティ」――「傷つきやすさ」や「脆さ」、そしてそれが放つ「美しさ」の象徴として。1988年に写真家ブルース・ウェーバーが監督して発表した、チェット・ベイカーのドキュメンタリー映画『レッツ・ゲット・ロスト』の4Kレストア版が、11月21日より日本で公開される。第45回ヴェネチア国際映画祭で批評家賞を受賞し、翌年の第61回アカデミー賞では長編ドキュメンタリー賞にノミネートされた秀作だ。
1950年代のウエストコースト・ジャズを代表するアーティストのひとりである、チェット・ベイカー。ジェリー・マリガンのピアノレス・カルテットに参加して一躍注目を集めたこの若きトランペッターは、哀愁を帯びたソフトな歌声でも人々を魅了した。ジェームズ・ディーンを彷彿とさせる甘いマスクとスラリとした容姿も相まって、1950年代半ばにはマイルス・デイヴィスを凌ぐ人気を誇っていたジャズマンだ(1956年のアルバム『チェット・ベイカー・シングス』は、今なおジャズの名盤として聴き継がれている)。しかし、当時の多くのジャズマンと同様に、チェットもまた重度の薬物依存に苦しみ、本国アメリカやイタリアなどでたびたび逮捕された。1970年代には薬物絡みのトラブルで前歯を折られ、演奏活動を一時中断するなど、毀誉褒貶の激しい人物でもあった。
1980年代、カルバン・クラインの下着広告などで世界的なトップフォトグラファーとなったブルース・ウェーバーが、10代の頃から彼のアイコンのひとりであったチェット・ベイカー本人と出会ったのは、1986年の冬のニューヨークだったという。顔に深く刻まれた皺により、かつての甘いマスクは失われたものの、哀愁を増したトランペットの響きと、変わらぬ美声を持った「生きる伝説」として、チェットが再び精力的に演奏活動を行っていた頃だ(1987年には来日公演も行った)。そこでウェーバーは、「被写体」としてのチェットの魅力に改めて惹かれ、彼に密着してドキュメンタリー映画を撮ることを提案し、チェットの了解を得た。こうして生まれたのが、本作『レッツ・ゲット・ロスト』である。
1987年、カリフォルニア州サンタモニカのビーチで、仲間たちと陽気にはしゃぐ50代後半のチェットを捉えた美しいモノクロ映像で幕を開ける本作は、主に3つのパートを横断しながら進行していく。ひとつは、翌1988年にオランダ・アムステルダムのホテルの窓から転落死することになる、彼の最晩年のスケッチと、彼自身への貴重なインタビュー。ふたつ目は、母親を含む彼と関係のあった女性たちや、彼の音楽に魅了された人々の証言(アルバムのジャケットなどでチェットの写真を撮り続けてきたウィリアム・クラクストンも登場する)。そしてもうひとつは、1950年代、彼が最も輝いていた頃のフッテージ――テレビ出演や演奏中の貴重な映像だ。
写真家ならではの審美眼で捉えられたコントラストの強いモノクロームで統一された映像は、幾度となく時代を行き来しながら、チェットの甘い歌声に乗せて、シームレスに繋がれてゆく。だが、それらの豊富な映像が、必ずしもひとつの「像」を結ばないところにこそ、この映画のユニークさがあるのだった。チェット・ベイカーとは、果たして何者だったのか? 過去の映像、関係者の証言、そして本人へのインタビューを重ねながらも、監督ウェーバーは、必ずしもその「答え」を観客に明示しようとはしない。そう、この映画は、よくあるミュージシャンの伝記映画のように、その人の人生を語りすぎることなく、むしろ語らないことによって、観る者の想像力を喚起するのだった。
もちろん、チェット本人を含め、登場人物たちは、彼の音楽の魅力や印象的な出来事について、映画の中でずっと語り続けている。だが重要なのは、そこで語られる内容以上に、それを語る人々の表情や語り口のほうなのかもしれない。決して愉快な話ばかりではないにもかかわらず、彼らは嬉々としてチェットについて語り続けるのだ(彼の母親だけは例外だったが)。その姿こそが、言葉以上にチェットの魅力を雄弁に物語るのだ。その意味で、この映画は、どこか「写真」のようですらある。映し出されたものをじっと見つめることで、見る者が想像を巡らせ、その背後にあるものに思いをめぐらせること。何が「真実」なのかはわからない。チェット本人ですら、何が「真実」かなど、わからないのだ。しかし、そこに思いをめぐらせることは、誰にでもできる。その人生や功績を「言葉」で説明するのではなく、「被写体」としての彼の魅力を、改めて見せることによって、観る者の想像力を自由に喚起させること。このドキュメンタリー映画を観ていると、本稿の最初に書いたことが、非常によくわかることだろう。そう、チェット・ベイカーは、何度でもよみがえるのだ。その甘い歌声と共に。
■公開情報
『レッツ・ゲット・ロスト 4Kレストア』
11月21日(金)新宿ピカデリー、角川シネマ有楽町、シネ・リーブル池袋、アップリンク吉祥寺、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次公開
監督:ブルース・ウェバー
製作総指揮:ナン・ブッシュ
撮影:ジェフ・ブライス
音楽:チェット・ベイカー
編集:アンジェロ・コラオ
提供:JAIHO
配給:SPOTTED PRODUCTIONS/ツイン
1988/アメリカ/119分
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公式サイト:https://letsgetlost4k.com
公式X(旧Twitter):@letsgetlost_4K


























