『べらぼう』を貫く「我が心のままに」 松平定信の人間描写にみる森下佳子脚本の奥深さ

第34回放送後にNHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』のラストキービジュアルが公開された。背を向ける群衆の中で1人こちら側を見つめる横浜流星演じる蔦重の表情はどこか儚げで、これまでのエネルギッシュな雰囲気が失われている。

『べらぼう』は怖いほどに時代を映す。それはどこか、「絵ってのは命を写し取るようなもの」として「生きてるみてえ」な絵を描く歌麿(染谷将太)たち絵師のように、時代そのものを「写し取って」いるかのようだ。
世にいう「寛政の改革」のはじまりである松平定信(井上祐貴)による厳しい統制のはじまりと、田沼意次(渡辺謙)と蔦重(横浜流星)との別れを描いた第34回はまさにそんな鬼気迫る回だった。定信が「田沼病」と称して全否定し、片や蔦重が「心のままに生きられる隙間があった」として肯定する「上から下までおのれの欲を満たすことばかり考えわがまま放題に振舞ってい」たこれまでの時代。それはそのまま第1話冒頭で「語り」の九郎助稲荷(綾瀬はるか)が言っていた、蔦重が「鮮やかに駆け抜けた」「欲深き時代」に他ならない。つまりは彼が「駆け抜けた」時代はまもなく終わる。その先の彼は一体どう生きるのだろう。
さらに、太田南畝(桐谷健太)が「たかが虫の歌」で咎められ怯える姿に加え、土山宗次郎(栁俊太郎)の斬首を敢えて正面から描くことで、彼らが場の中心にいた第2章(第17回以降)前半の底抜けに明るい時代を対比的に思い起こさずにはいられない仕組みにもなっていた。底抜けに明るい時代とは、蔦重の言うところの「身一つでできる心の贅沢」である「狂歌」ブームの幕開けの時代だ。同じ流れで蔦重が狂歌について語った「意味もねえ、くだらねえ、ただただ面白い」という言葉はそのまま、「屁」を連呼して歌い踊っていた第21回の作家たちの幸せそうな光景を蘇らせる。さらにはそれに端を発した恋川春町(岡山天音)という作家の、繊細で不器用で、ちょっと面倒くさい、愛すべき人間性を描いた第22回をも重ねずにはいられない。そしてその言葉「屁」は「戯歌一つ詠めぬ世」に対する抗議の「屁」、反骨の「屁」の踊りとなり、第34回で再び繰り返された。

ここにきて、人々は平賀源内(安田顕)の幽霊を見る。第35回では、鳥山石燕(片岡鶴太郎)が庭の片隅に得体の知れない「何か」を見た後、亡くなった。「命を写し取る」ように「その目にしか見えない」あやかしの絵を描き続けた彼が遺した雷獣の絵の顔の一部に、蔦重は「なんとなく」源内の面影を見る。
さらに第36回予告では源内の霊の目撃情報まで飛び出している。実際の「霊」の登場の是非は今後の楽しみとしてとっておくにせよ、私たち視聴者は既に、源内の霊を見続けているとは言えないだろうか。なぜなら本作のそこかしこで、彼の「我が心のままに生きる」という言葉が鳴り響いているからだ。

第34回において蔦重は、定信による統制のはじまりと「見せしめ」の話を聞き、その対象となった南畝や土山が場の中心にいた華やかな日々の光景を思い出す過程の果てに、「我が心のままに生きる」と言った源内の姿を見る。その後の意次とのやりとりにおいても、意次が、蔦重の提案に対し源内の言葉を引用して「自らに由として『我が心のままに』」やるがいいと返す。





















