『べらぼう』でも“文化系オタク”の一面が発揮される? 松平定信の知られざる素顔を解説

幕政引退後の定信の後半生とは

36歳で老中を解任されたのち、定信は白河藩主に専念し、55歳で隠居するまで幕府の役職に就くことはなかった。定信の文化への情熱は衰えるどころか、ますますのめりこんでいくこととなる。白河藩に転籍した文晁や、定信が抜擢した洋風画家・亜欧堂田善らが、彼の文化事業を支えた。
定信は「日本オリジナルの世界地図」を銅版画で作ろうと考え、田善に技術を学ばせた。幕府の銅版画制作が頓挫したときは、田善を派遣して助け、日本初の世界地図『新訂万国全図』の刊行を実現させた。
朱子学を推進し蘭学を統制したことで、定信には「西洋嫌い」のイメージがつきまとう。しかし老中就任前に著した『修身録』では、「実用性を欠き空理空論に陥りやすい点」を疑問視している。
朱子学を採用したのは「学問を統一し、思想的な支柱を作る」ため。つまり、統制の道具として選んだだけで、盲目的に信じていたわけではない。定信は、良いものなら洋の東西を問わず取り入れる、柔軟で先進的な精神の持ち主だったのだ。
吉原本の詞書を担当したのは吉原好きのあの男
定信は白河藩以外の御用絵師にも仕事を依頼した。美作津山藩松平家の御用絵師・鍬形蕙斎には『東都繁盛図巻』や『近世職人尽絵詞』を制作させた。実は蕙斎は北尾重政(橋本淳)の弟子・北尾政美(高島豪志)として『べらぼう』にも登場している。
驚くべきは「詞書」を担当したのが、かつて定信に弾圧され断筆に追い込まれた戯作者たち———大田南畝(四方赤良)、朋誠堂喜三二、山東京伝だったこと。
さらに定信は、吉原の遊女の一日を描いた『吉原十二時絵詞』を制作した。絵は蕙斎、詞は京伝が担当。京伝は、手鎖の刑のもととなった『錦之裏』(遊里の内情、遊女の生活などを精細に描写した洒落本)を下敷きに詞を書き上げたという。
依頼した定信も、受けた戯作者たちも、どんな思いだったのだろうか。
オタク的情熱と為政者としての冷徹さが同居しているのが、定信の面白さだ。弾圧した過去はあっても、彼らの文才を高く評価し、自らの文化活動に活かしたいと考えたのかもしれない。
依頼を受けた側も、複雑な心境だったはずだ。恨みがありつつも、認められたことは名誉であり、経済的にもありがたかった。あるいは、過去のわだかまりを超えて参加すべき意義を感じたのかもしれない。
いずれにしても、定信は政治家としては吉原や戯作者を取り締まらざるを得なかったが、個人としては彼らを好意的に見ていたことが、この一連の作品から見て取れる。こうして定信は、かつて弾圧した文化人たちを支援していくのである。
『源氏物語』を7回書き写した!文化系オタクの老後の愉しみ
老後、定信の楽しみは古典の書写だった。すでに活字本が流通し、書写の必要は無くなっていたが、彼は筆を執り続けた。とりわけ『源氏物語』はお気に入りで、生涯で7回も書き写したという。
現代人には長く難解な『源氏物語』。原文どころか現代語訳ですら読み通せる人は少ない。それを7度も書き写すとは。『源氏物語』の書写が終わるのを惜しみ、わざと他の本を書写して引き延ばしたという。まさに「源氏クラスタ」だ。
定信が孫娘のために、縦横5センチほどの「豆本」に細かい字でみっちりと書いた小写本『細写 源氏物語』も現存する(桑名市博物館蔵)。拡大鏡が必要なほどの小さな文字は、定信の几帳面さと集中力を物語る。しかも、これを作ったのは61歳のとき。驚異的な根気は、もはや執念を感じさせる。
定信が『源氏物語』を愛したのは、皇子に生まれながら臣下として生きた源氏の君に自身の境遇を重ね合わせたからかもしれない、ともいう。
さらに定信は古物を絵師に模写させて「集古十種」という古宝物図録集を編纂して文化財を守り、身分を超えた文化サロンを開いた。築地の白河藩下屋敷でのサロンには大田南畝も訪れたという。
文化を弾圧したことで知られる松平定信は、実は誰よりも文化を熱愛した「文化の擁護者」だった。かつて弾圧した戯作者とサロンで語り合っていたとは、一体どのような話題で盛り上がったのか、定信の「オタクぶり」をぜひ聴いてみたいものである。
主要参考文献
『お殿様の定年後』安藤優一郎(日本経済新聞出版)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本大百科全書 ニッポニカ』『日本国語大辞典』(小学館)など
■放送情報
大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』
NHK総合にて、毎週日曜20:00〜放送/翌週土曜13:05〜再放送
NHK BSにて、毎週日曜18:00〜放送
NHK BSP4Kにて、毎週日曜12:15〜放送/毎週日曜18:00〜再放送
出演:横浜流星、小芝風花、渡辺謙、染谷将太、宮沢氷魚、片岡愛之助
語り:綾瀬はるか
脚本:森下佳子
音楽:ジョン・グラム
制作統括:藤並英樹
プロデューサー:石村将太、松田恭典
演出:大原拓、深川貴志
写真提供=NHK






















