『べらぼう』が問う“何のために生まれたのか” “誰かのために”生き抜いた新之助の最期

またひとり、大切な人を失った。もう二度とその笑顔に会えない寂しさ、そして恩を返せない悔しさが押し寄せる。これまでも何人もそうして見送ってきた。なのに、また……。その積み重なった悲しみに、蔦重(横浜流星)の心が押しつぶされてしまうのを感じた。その死に顔がどんなに穏やかであったとしても。
NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第33回「打壊演太女功徳」では、ついに天明の打ちこわしが描かれた。「やるならばカラッと」――そんな江戸っ子らしい気風で、思いの丈を伝える場にしようとした蔦重のアイデアを、新之助(井之脇海)は受け入れる。彼はその思いをのぼりにしたため、統制の取れた打ちこわしを目指した。

狙うのは、買い占めや売り渋りで暴利をむさぼった悪徳米屋のみ。これは米屋と民との喧嘩であるため、盗みや殺しは一切しない。そう掲げた、一種のパフォーマンスとしての打ちこわしだった。だが、事態はやがて予想もしない方向へと転がっていく。
統制されていたはずの打ちこわしは、規模が拡大するにつれて次第に志を異にする者たちを呼び寄せてしまう。その中に混じっていたのが、あの「丈右衛門」“だった”男(矢野聖人)だ。男は例のごとく民衆の負の感情を焚きつけるべく、小判を胸から取り出してばらまき、「持ってけ泥棒」と叫ぶ。おそらくその金も、一橋治済(生田斗真)の命を受けて、あらかじめ用意されていたものだろう。

「盗みはやめてもらいたい。これは我らの思いを示すための打ちこわしだ! やめてもらいたい。やめてくれ! 盗むな!」
そう必死に訴える新之助。だが男は「誰が盗んだかなんて、わかるかよ」と吐き捨てる。その言葉は、混乱に紛れていくつもの顔を使い分けて暗躍してきた彼自身の存在を象徴していた。

名もなき者を代表し、世を正そうと立ち上がった新之助。対して、名を捨てた者として影の仕事を担ってきた男。二人の運命は紙一重だったのかもしれない。新之助は「俺は何のために生まれてきたのか、わからぬ男だった」と語ったが、きっとこの時代は多くの人が同じような閉塞感に包まれていたと想像する。
生まれが人生を決めていた江戸時代。下級武士の三男として生まれた新之助に、大きな展望が開けることはなかった。太平の世が続けば武士がその手腕を発揮する場はなくなり、身分としては低いはずの商人たちのほうが裕福な暮らしをしている矛盾。その鬱憤を晴らすように、武士階級であった大田南畝(桐谷健太)、朋誠堂喜三二(尾美としのり)、恋川春町(岡山天音)らがペンネームで名作を次々と生み出してきた様子も、このドラマで描かれてきた。
新之助も、なんとか自分で人生を切り拓こうと考えたのだろう。しかし平賀源内(安田顕)の門を叩いたものの、戯作者たちのように特別秀でた才は見つからなかった。さらには妻・ふく(小野花梨)と息子・とよ坊の命を守ることもできなかった。そんな新之助が改めて見つけた「生きる意味」が、この天明の打ちこわしだった。

そして、ふと思うのだ。もしかすると「丈右衛門」だった男も、似たような生まれの制約に苦しんでいたのではないか、と。それが本当に正しい道ではないとどこかでわかっていながらも、自分の存在意義を見出せる暗躍の仕事に没頭していったのだとしたら。そして、それは将軍の座を目の前にしながらも手にできない運命とともに生きる治済もまた、同じだったのではないか、と。
自分の自由にならない運命に苦しむという点では、松平定信(井上祐貴)も似たような葛藤を抱えていたことがうかがえる。「何のために生まれたのか」と問わずにはいられない焦燥感を持つ者にとって、「このために生まれた」と言わんばかりに生き生きと、我が心のままに成り上がっていく意次(渡辺謙)や蔦重の姿は、おそらく強烈なコンプレックスを刺激したことだろう。




















