『8番出口』二宮和也はなぜ階段を“下る”のか? 迷う男が辿り着けなかった真のクリア条件

『バイオハザード』(2002年)、『モンスターハンター』(2020年)、『モータルコンバット』(2021年)、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』(2023年)……。
人気ゲームの映画化作品は数多く存在する。その多くは、人気キャラクターの冒険譚を実写やCGに置き換える、いわば“物語の再現”にすぎなかった。しかし、KOTAKE CREATE(コタケクリエイト)によるインディーゲームを映画化した『8番出口』(2025年)は、それらとは明らかに一線を画す。このゲームには、再現すべき“物語”そのものが存在しないのだ。

舞台は、駅の構内を模した地下通路。プレイヤーは0番出口をスタート地点に、「8番出口」へと向かって歩いていくだけ。ルールは極端なほどシンプルだ。
・異変を見逃さないこと。
・異変を見つけたら、すぐに引き返すこと。
・異変が見つからなかったら、引き返さないこと。
・8番出口から外に出ること。
閉じ込められた理由は何なのか、そもそもここはどこなのか、理由はまったく説明されない。不条理の真っ只中で、プレイヤーはひたすら歩くことだけを強いられる。筆者が最も驚いたのは、コマンドの少なさ。アイテムを調べることも、壁を叩くことも、キャラクターと会話することもできない。移動するだけという徹底したミニマリズムが、かえって強烈な没入感を生み出していた。この奇妙なゲームは、やがて実況動画によって人気を獲得する。実況者による生身の声が物語なき世界に物語を付与し、ただの体験がナラティブへと変貌する。言い換えれば、『8番出口』とは実況者を媒介にして初めて物語を獲得したゲームだったのだ。

東宝の名プロデューサー・川村元気が監督を務めた今回の映画版は、その構造を巧みに継承している。主人公の「迷う男」を演じるのは二宮和也。筋金入りのゲーマーとして知られる彼が、“実況する肉体”をスクリーンに立ち上げるのは納得のキャスティングだ。観客は二宮の視点を通して、まるで実況配信を視聴するかのように、この不条理な世界を体験することになる。
視点操作も周到だ。序盤は主人公のPOV(一人称視点)で始まり、やがて駅の構内に閉じ込められてからは、二宮の背中を追い続ける三人称視点へと移行。序盤はワンシーン・ワンカットで緊張感を持続させ、中盤からは巧みなエディットで恐怖を構築していく。それはまるでゲームから実況配信、そして映画へと、表現スタイルが変貌していく過程を目の当たりにしているかのよう。
ホラー映画としての強度も高い。被写界深度を極端に浅く設定し、「人物には見えているが、観客には見えない」という古典的手法を忠実に活用している。川村監督の前作『百花』(2022年)でも浅い被写界深度が特徴的だったことを思えば、これは作家性の表れなのかもしれないが。

さらに、左右対称のシンメトリーな構図や幾何学的な美術設計は、スタンリー・キューブリック監督『シャイニング』(1980年)の影響を感じさせる。二宮の背中を追うショットは、三輪車を走らせるダニー少年を追ったステディカムの映像と重なり、洪水が押し寄せるシーンは、エレベーターから血が溢れる有名な場面を想起させる。
美術と音楽による引用も印象的だ。ポスターに貼られたエッシャーの絵、劇伴で流れるモーリス・ラヴェルの「ボレロ」、クロード・ドビュッシーの「夢」。それは、この異様な空間が“ループ”であり、“夢”であることを暗喩する。特に「ボレロ」の反復は、同じ空間を歩き続ける主人公の軌跡と響き合う。セリフではなく美術や音楽で状況を語る手法は、まさに映画ならではの表現だ。





















