『8番出口』が描いた“差異と反復”の美学 単調な“ルーティーン”になぜ魅了されるのか?

KOTAKE CREATEがひとりでつくりあげ、大きな反響を呼んだインディーズゲーム『8番出口』が二宮和也を主演に実写映画化された。プレイヤーはうす暗い地下鉄の地下通路を歩いてゆくが、おなじ場所をループするばかりで出口にたどり着くことはできない。【ご案内】の看板には「異変を見つけたら、すぐに引き返すこと」「異変が見つからなかったら、引き返さないこと」「8番出口から外に出ること」とある。正しく進めば出口の数字は増えてゆくが、間違えれば0番出口に逆戻りしてしまうこの迷宮で、最後まで異変を見逃さず8番出口にたどり着くことができるのだろうか。
POVと「リミナルスペース」の巧みな演出

映画版ではパートナーに妊娠を告げられた主人公=迷う男(二宮和也)が『8番出口』の世界に迷いこむ。冒頭は主人公のPOV(ポイント・オブ・ビュー、一人称視点)によって撮影されており、電車内の風景から改札を降りて出口に向かい、ゲームの世界に入りこむところまでがこの手法で描かれる。この場面において、迷う男の身体は画面に不在である。二宮和也の全身は一切スクリーンに姿を見せず、声と手元が多少見えるばかりだ。つまり異世界への入り口である階段を通りぬけてからというものスクリーン上に広がるのは、徹底的な無人の世界である。駅の通路にだれひとり人がいないというだけで景色はこんなにもおそろしいものに変容する。
ここ数年で日本でも「リミナルスペース」という概念が定着してきた。『8番出口』はまさしくこの「リミナルスペース」の系譜に位置する。「リミナルスペース」とは、見ているだけで不安になるような不気味な無人空間を指す。このようにことばで説明するよりも「Liminal Space」と検索窓に打ちこんでもらったほうが感覚的に理解していただけるだろう。本来ひとがいるはずの場所にがらんと人子ひとりいないというこの異常感、どこかあの世に接続していると思わせるような不気味な世界観が「リミナルスペース」という美学にひとびとを惹きつけてきた。

またコロナ禍のロックダウンを通じて「リミナルスペース」は期せずして現実のものとなり、インターネット上では「リミナルスペース」的な異世界から(という設定)の配信が多くなされた。廣田龍平は『ネット怪談の民俗学』(ハヤカワ新書)のなかでこれらの流れを汲んだ『8番出口』というゲームを、「ほとんど何の物語もないまま窓も何もない通路をひたすら歩いていくさまは、私たちが初期のバックルームやリミナルスペース、TikTokの異世界実況動画などから感じてきた不穏さをきわめてうまくゲームに落とし込んでいるように思われる」(p.263)と評価している。
ゲームとは違い役者の身体を映すことが基本的には必要とされる映画という媒体においても、『8番出口』がPOVショットを利用することで“無人感”を強調し「リミナルスペース」の不気味さを保持したことは、ゲームのもつ美学を減じないという実写化への覚悟を感じさせる。冒頭のPOVショットはどの場面を切りとっても「リミナルスペース」的で、おそろしさと美しさを両立している。
差異と反復の美学

異変を見逃さないというルールが理解されてからのこの映画の魅力は、景色の確認作業の反復という一見退屈にも思われる映像の連続にある。迷う男は貼られたポスターやドア、ロッカーの数を指差し確認してゆく。8番出口にたどり着くまでその確認は続けられるわけだが、なぜかそれを快く観ていられてしまう自分がいる。ルーティーン化した作業を映画として観るのは、一種の快感であるのかもしれない。
ルーティーンをひたすらに撮り固めた映画に『ジャンヌ・ディエルマン、ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』(監督:シャンタル・アケルマン/1975年)がある。英国映画協会が発表する「史上最高の映画(The Greatest Films of All Time)」の最新版では第1位を獲った、近年ではフェミニズム映画としても再評価のなされる映画である。この作品はとある主婦(デルフィーヌ・セイリグ)の日常を淡々と映しとったもので、彼女はルーティーンに非常に執着する。すべての家事が順序づけられており、それらはまるでダンスのようにひとつひとつこなされてゆく。すこしずつこのルーティーンに綻びが見えてくるのがこの映画の魅力なのだが、201分という長尺ゆえに決まりきったルーティーンを見せられる時間はかなり長い。しかしこの反復を観つづけるという行為がどこかで快感に転化する瞬間があるというのもまた事実である。
セイリグ演じる主人公がだんだんとルーティーンをこなせなくなる、反復に見出される差異と似たことは『8番出口』にも見られる。フォーカスを当てられる人物が迷う男から歩く男(河内大和)に変わったとき、確認作業が地味ではあるが確実に変容する。ひとつずつポスターの名前を言っていた迷う男に対して、歩く男は1、2、3……と枚数を数えるだけであるし、ドアやダクトの名指し方も両者は異なっている。迷う男の確認作業に慣れさせられた観客は、歩く男のやりかたに初めは違和感を抱きつつもあっという間に適応してゆく。迷う男による確認の反復からすこしズラされた歩く男の確認に移行したとき、その差異を見つけだす脳はたしかに快さをおぼえていた。『8番出口』には、『ジャンヌ・ディエルマン』的な反復と差異の美学が存分に含まれていたように思われる。





















