『鬼滅の刃』外崎春雄監督の“作家性”はなぜ無視されるのか? 映画史に残る“偉業”に迫る

映画・アニメにおける「作者」概念の系譜

また、先ほども書いたように、(このへんの問題に深入りすると際限がなくなるので、適当なところで切り上げるが)そもそも「映画」なり「アニメ」なりといった不特定多数の集団による創作物に対して、何らかの特定の「作者」を措定する――もっと具体的に言えば、「監督」を作品の「作者」だとみなすということ自体が一種のフィクションというか、作業仮説だという経緯がある。
ごくざっくりした見取り図では、文化表現や芸術の領域において、「作者」が問題となるのは、作品の作り手の「独創性originality」や「個性personality」の概念が重視されるようになった18世紀のロマン主義あたりからである。ここで、絵画の「作者」としての画家、小説の「作者」としての小説家などが注目されるようになる。このような、個々の芸術作品は、それを生み出した特権的で単独の作者と結びついているというのが、近代の芸術観だ。
そしてその後、写真や映画といった複製技術、特に映画のような集団制作による、大衆娯楽のための商品――アドルノ&ホルクハイマーのいう「文化産業」――が20世紀に発達する。草創期の見世物的な形態を脱して映画が近代的・芸術的な自律を遂げようとするときに、「作者」の概念を導入するということが、20世紀の映画理論や映画批評の世界で起こっていった。その最も有名な歴史的事例が、1950年代末から60年代前半にかけてフランスの映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』が掲げた批評的な戦略「作家主義politique des auteurs」である(※2)。「ヒッチコック=ホークス主義」という有名な標語に象徴されるように、アンドレ・バザンや後に名監督になるフランソワ・トリュフォーらは、アルフレッド・ヒッチコックやハワード・ホークスといったハリウッドの娯楽映画の職人監督たちを偉大な「作家」(シネアスト)として批評的に顕揚した(それを、「作家理論auteur theory」として理論化したのがアメリカの映画評論家アンドリュー・サリスである)。このときに起こった批評的なアクロバットを、映画研究者の藤井仁子は、次のように表現していた。「彼ら[註:作家主義の批評家たち]が問題にしたのは、スタジオ・システムによって大量生産される規格化された商品でしかないアメリカ映画が、にもかかわらず一本一本まるで違うという事実にほかならなかった。/同じで違う――このアメリカ映画の謎に迫るためには、独創性に基礎を置く従来の芸術観を棄てるしかあるまい。われわれの映画の見方、映画に向ける視線の側が変容する必要があるのだ」(※3)。「同じで違う」――いみじくもこの特徴は、現代の無数のメディアミックスのコンテンツ群にも当てはまるだろう――ハリウッドの娯楽映画を批評的に価値づけるために、「作者」(=「監督」)という概念が映画に、こう言ってよければかなり無理やりに適用されたのである。
ちなみに、戦後日本のアニメの分野では、近年も大塚英志や永田大輔が明らかにしているように(※4)、家庭用ビデオが社会的に浸透し出すおよそ1970年代から80年代にかけて、アニメ作品に「作家」を見出す動きが起こっていったとされる(同じ時期には『カイエ』的なシネフィル文化を日本に移植した蓮實重彦らの作家主義的な映画批評が隆盛を極めていたことにも注意されたい)。
しかも興味深いのは、このように映画やアニメに近代的な意味での「作者」が半ば強引に見出されるようになっていった時期に、より広範な現代思想や芸術理論ではむしろ近代的な「作者」概念を批判する動きが続々と現れてきたことである。フランスの批評家ロラン・バルトの「作者の死」(1967年)や同じくフランスの哲学者ミシェル・フーコーの「作者とは何か?」(1969年)といった論文が有名だろう。
だとすれば、映画やアニメに対して、小説や絵画や音楽のような近代的な「作者」を投影していたここ数十年の批評や観客の態度こそが、むしろ異例の事態だったのかもしれない。
ともあれ、いまやクリント・イーストウッドの新作が劇場公開されない時代である。一般観客レベルで、おそらく「○○監督最新作!」という触れ込みで観客が動員できるのは、あと数年後には、せいぜい新海誠くらい、なんて未来がかなり現実味を帯びてきている。その新海ですら、『君の名は。』の公開の際には「ミュージック・ビデオ的」などと鬼っ子のように形容されていたのだから、ここ10年の映像表現や興行の変化には隔世の感を禁じ得ない。監督の「顔」がない『劇場版「鬼滅の刃」』には、このような現代の映画文化の地平が広がっている。
『猗窩座再来』の構成に現れる現代性

今回の『猗窩座再来』が面白かったのは、作品全体の構成や構造が、そのような今日の映画やアニメの条件をどこか反映するものになっていたことだ。すでに自分のnoteでも感想で書いたことだが、2時間半にも及ぶ本作は――全編がこれで一つのエピソードの中の一部だという理由もあるが――物語としての起承転結の構築性が極端に希薄で、前作以上に個別のシーンの断片的で冗長な羅列という趣が強かったことだ。
前作の『無限列車編』では、まさに作中の舞台装置である「列車」が体現していたように、冒頭からクライマックスの炎柱・煉獄杏寿郎と猗窩座の戦いにいたるまで、物語の古典的なコンテニュイティがある程度はっきりと展開されていた。ところが、今回は155分の映画のほぼ全編が、無限城空間内での圧倒的なクオリティのバトルシーンと、個々の因縁のエピソードの回想シーンがモザイク状に連なっている。つまり、映像的には、昨今の映画によくあるテーマパークやVRゲームのようなアトラクション的映像の連続であり、内容(構成)的には、キャラクターたちのライブシーンが延々と続く『劇場版アイドリッシュセブン LIVE 4bit BEYOND THE PERiOD』(2023年)のようなアイドルアニメ映画に近いコンテンツになっている。ここで挙げたコンテンツも、「作者」=「監督」が注目されるような類のものではないだろう。

ともあれ、映画の半分を占めるバトルシーンはアトラクションなので、ほぼ物語=時間が進行しない(あるいは無限に時間が引き延ばされる)。そして、もう半分の、これも延々と続く蟲柱・胡蝶しのぶや鬼の獪岳、猗窩座らの回想も、それが回想であるがゆえに物語=時間が直線的に展開する感覚に乏しい。実際に、映画前半で、しのぶが童磨に吸収された(食べられた)あと、継子の栗花落カナヲが童磨と対峙するのだが、その後、さんざん他のバトルシーンや回想エピソードが出てきたあと、映画後半でまだ同じ位置で対峙しているのだ。「いつまで立ってんねん」と思わず突っ込んでしまった。
10年以上前の『アベンジャーズ』(2012年)や『君の名は。』の時点でも、それらのゲーム的なカメラワークやミュージック・ビデオ的な構成に「新時代の映画が現れた」と驚きの声が上がったが(巨匠マーティン・スコセッシがマーベル映画を「あれは映画ではない」とコメントしたのがもはや懐かしい!)、今回の『猗窩座再来』の内容は、それをさらにラディカルに拡張させている。そして、このような「映画」が、今後、ますます興収ランキングの上位を占めていくことになるのは確実だ。
そして、その変化はnoteでも書いたように、実は映画史の始原への回帰でもある。以前、『映像革命表現時代の映画論』(星海社新書)で映画ライターの杉本穂高が、『無限列車編』を初期映画の「列車映画」とのアナロジーから論じていたように(※5)、こと『鬼滅』の映画の場合は、私の言葉では「ポストシネマ」としての新しさに加えて、きわめて映画の始原的な感触を感じる。例えば今回の『猗窩座再来』も、劇場で両隣、小学生くらいの子どもに挟まれて観ながら、「ああ、大正時代の尾上松之助主演の時代劇って、こんな感じだったんだろうな」とぼんやり思っていた。竈門炭治郎、水柱・冨岡義勇と猗窩座との剣戟シーンは、例えば松之助が主演し、牧野省三が監督した旧劇映画『豪傑児雷也』(1921年)のチャンバラシーンのアトラクション性ときわめて似ているのではないか。そして大正時代の映画観客たちもまた、その映画の監督が誰かなど、ましてやその「作家性」など、ほとんど気にしてはいなかったはずだ。その意味では、杉本が書いたように、『猗窩座再来』もまた、「まごうことなき『映画』だ」とも言えるだろう。しかし同時に、それは本作をめぐる外崎監督の存在の希薄さとも通底しているように思うのである。
『劇場版「鬼滅の刃」』シリーズ、あるいは『猗窩座再来』における外崎監督の作家性が論じられる際には、おそらくはこのような文脈を考慮するときに、はじめて有効なものになる気がする。
参照
(※1)余談ながら、わずか5年前(2020年)までは、ここに2人のハリウッドの映画監督、ジェームズ・キャメロン(『タイタニック』『アバター』)、クリス・コロンバス(『ハリー・ポッターと賢者の石』『ハリー・ポッターと秘密の部屋』)の作品が2本ずつランクインしていた。それが現在では、トップテン中、洋画はわずか3本しかない。ここ数年の映画興行の急速な「邦高洋低」の傾向を如実に示す事実である。
(※2)とはいえ、映画制作者を芸術家とみなすルイ・デリュックの「シネアスト」など、類似の概念や用語が戦前に存在しなかったわけではない。また、日本をはじめ、「監督」が観客にとってある種のスター的な存在とみなされるのは、映画の草創期から見られた。洞ヶ瀬真人「近代日本に現れた「監督者」――1910年代における監督言説の萌芽」、『映像学』第82号、日本映像学会、2009年、5〜23頁。
(※3)藤井仁子「アレゴリーとしての作家主義――映画の新たな見方の発明とその帰趨」、『演劇映像』第62号、早稲田大学演劇映像学会、2021年、31〜32頁。ウェブ掲載のため、原文にあった傍点は省略した。
(※4)大塚英志『二階の住人とその時代――転形期のサブカルチャー私史』星海社新書、2016年。永田大輔『アニメオタクとビデオの文化社会学――映像視聴経験の系譜』青弓社、2024年。
(※5)杉本穂高『映像表現革命時代の映画論』星海社新書、2023年、20〜31頁。
■公開情報
『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』
全国公開中
キャスト:花江夏樹(竈門炭治郎役)、鬼頭明里(竈門禰󠄀豆子役)、下野紘(我妻善逸役)、松岡禎丞(嘴平伊之助役)、上田麗奈(栗花落カナヲ役)、岡本信彦(不死川玄弥役)、櫻井孝宏(冨岡義勇役)、小西克幸(宇髄天元役)、河西健吾(時透無一郎役)、早見沙織(胡蝶しのぶ役)、花澤香菜(甘露寺蜜璃役)、鈴村健一(伊黒小芭内役)、関智一(不死川実弥役)、杉田智和(悲鳴嶼行冥役)、石田彰(猗窩座役)
原作:吾峠呼世晴(集英社ジャンプ コミックス刊)
監督:外崎春雄
キャラクターデザイン・総作画監督:松島晃
脚本制作:ufotable
サブキャラクターデザイン:佐藤美幸、梶山庸子、菊池美花
プロップデザイン:小山将治
美術監督:矢中勝、樺澤侑里
美術監修:衛藤功二
撮影監督:寺尾優一
3D監督:西脇一樹
色彩設計:大前祐子
編集:神野学
音楽:梶浦由記、椎名豪
主題歌:Aimer「太陽が昇らない世界」(SACRA MUSIC / Sony Music Labels Inc.)・LiSA「残酷な夜に輝け」 (SACRA MUSIC / Sony Music Labels Inc.)
総監督:近藤光
アニメーション制作:ufotable
配給:東宝・アニプレックス
©︎吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable
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