『光が死んだ夏』が描く「人の本質とは何か」という根源的な問い 実存主義の視点で読み解く

7月5日より日本テレビ系にて全国放送がスタートしたTVアニメ『光が死んだ夏』。原作はモクモクれんによる同名マンガで、「このマンガがすごい! 2023」オトコ編第1位に選出された話題作だ。
物語の舞台は、自然豊かな田舎の集落。主人公・よしきと光は、幼い頃からともに育った親友同士である。しかし、半年前に山の中で行方不明になって以来、光の様子はどこかおかしくなっていた。小さな違和感が積み重なる中で、よしきの疑念はしだいに確信へと変わっていく。「……お前、やっぱ光ちゃうやろ」。思いきってそう問いかけると、衝撃の事実が明らかになり――。
本作の見どころは、一度姿を消した友人が“成り代わられて”戻ってくるというホラー的なモチーフを用いつつ、単なる恐怖の演出にとどまらず、「人の本質とは何か」「存在とは何によって成り立つのか」といった根源的なテーマが作品の随所で掘り下げられている点だ。本稿では、原作ファンの視点から、作品をより深く味わうために注目したいポイントを紹介する。
以下、原作マンガのネタバレを含みます。
アニメ『光が死んだ夏』の肝は“音”の演出 小林千晃×梅田修一朗が紡ぐブロマンスに期待
じっとりとした夜の空気に、ふと背後を気にしてしまうような、ひやりとする感覚。この夏、画面越しに肌が粟立つような体験を届けてくれる…人間の存在の曖昧さとその本質への問い
物語は、幼なじみ同士の少年・よしきとヒカルの関係を軸に描かれる。外見こそ以前のままではあるものの、中身は人間ではない“ナニカ”になってしまった光。その事実を知ってもなお、ヒカルのそばから離れようとはしないよしき。戸惑い、恐れ、迷いながらも互いを求め合う2人の姿には、理屈では割り切れない執着や情が滲む。まず特筆すべき点は、よしきがヒカルに向ける強烈なまでの思慕の念だ。
「お前が何者やろうと……そばにおらんよりは、ずっと」
「もう勝手におらんくならんといてね」
絞り出すような声でそう語るよしきの表情には、深い葛藤と切実な想いが垣間見える。しかし、彼がそれほどまでに光に固執するのはなぜなのか。相手の本質がすっかり変わってしまったと知ったなら、恐怖や戸惑いから距離を置こうとするのが普通なのではないか。

ところで、筆者が初めてこの作品に触れたときに真っ先に連想したのが、フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルが提唱した「実存は本質に先立つ」という思想だった。端的に言えば、存在はまず「そこにある」ことで意味を持ち、人間性や自我、アイデンティティといった本質はあらかじめ決まっているものではなく、後から形成されるという考え方だ。裏を返せば、どれほど優れた人格や魂を持っていようと、現実に「ここに存在しない」者は何者でもない。
この思想は、まさに本作の核と深く共鳴しているように思える。なぜなら、この考え方を前提にすれば、よしきがヒカルに向ける想いの根源も明確になるからだ。よしきにとって、山から戻ってきたのが「本物の光かどうか」はもはや大きな問題ではない。何より大切なのは、いま目の前に“光のように見える存在”がいて、自分を見つめ返してくれているという事実だ。よしきはおそらく、光の「存在そのもの」を愛している。
だが、よしきの愛は、単なる依存や盲信とは違う。光の異変にいち早く気づいたよしきは、不安や自己保身のために目を逸らすことはせず、その違和感に真っ向から向き合おうとする。彼は光に成り代わった“ナニカ”の正体を探り始め、徐々にその存在の不気味さや危うさを認識していく。そして明らかになるのは、それがもはや人間ではなく、人を殺めることをいささかもためらわない存在であるという恐ろしい事実だ。それでもよしきは、ヒカルを突き放すことができない。かつて光と過ごした日々の記憶が、そして理屈や常識を超えてなお残る「そばにいてほしい」という欲求がよしきの感情を強く揺さぶり、理性の刃を鈍らせる。

しかも、よしきのその欲求は決して一方通行ではない。外見は光そのものだが、中身はまったくの別物――それが今のヒカルである。にもかかわらず、そのヒカルもまた、よしきを強く求め、彼に正体を気取られてもなお、そばを離れようとしない。ヒカルの行動原理ははたして、かつてのヒカルのふるまいをなぞるだけの空虚な演技にすぎないのか。あるいは光の中にわずかに残された過去の記憶の断片に根ざした、本物の想いが芽生えつつあるのだろうか。
この問いもまた「本質は後から形成される」という実存主義の視点で読み解くことができる。例え記憶が曖昧でも、はたまた本来の光の魂が完全に失われているとしても、今ここにいるヒカルが、心からよしきを求めて手を伸ばす――それ自体が彼の存在の証であり、愛の表れなのではないだろうか。
全身全霊でよしきとのつながりを求めるヒカルの姿には、たしかに“よしきが求める誰か”になろうとする意志が宿っており、人ではない未完成な存在なりの愛情が見てとれる。存在すること、そして誰かを求めることーー人間の本質とは、生まれ持った何かに根ざしているのではなく、その繰り返しの中で時間をかけて芽生えていくものなのかもしれない。





















