『べらぼう』染谷将太の涙の意味を改めて考える 喜多川歌麿の今後を史実を踏まえ読み解く

『べらぼう』歌麿の涙の意味を改めて考える

 歌麿(染谷将太)が筆名を「歌麿門人千代女」に書き換えた理由を聞かれると、「生まれ変わるなら女がいいからさ」と呟く。NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』第26回「三人の女」で描かれたこの場面は、これまで感情を秘めてきた歌麿が、初めて想いを口にした瞬間だった。それは明確な喪失感を伴う“叶わなかった想い”であり、「特別な存在になれなかった」という深い悲しみの表出でもあった。本稿ではこの描写を出発点に、歌麿が今後どのように変化していくのかを、史実を踏まえて読み解いてみたい。

 歌麿にとって蔦重(横浜流星)は、ただの出版人や“後見人”ではない。第1回「ありがた山の寒がらす」では明和の大火から救い出され、第18回「歌麿よ、見徳は一炊夢」ではどん底の生活から引き上げられた。蔦重は歌麿の人生を2度も救ってくれた存在であり、「自分を必要としてくれた最初の他者」だったのである。そして“弟”として、蔦重の成功を誰よりも近くで見守ってきた。

 だからこそ歌麿は、てい(橋本愛)のように、母・つよ(高岡早紀)のように、“蔦重にとってのたった一人”になりたかった。「俺と同じ考えで、同じ辛さを味わってきた人」「俺のたった一人の女房」という蔦重のていへの言葉は、歌麿が最も聞きたかった言葉だったのかもしれない。

 歌麿のそうした蔦重への思いは、「創作」という形で昇華されていたのだろう。絵を描き、企画に関わり、作品を残す。第22回「小生、酒上不埒にて」で恋川春町(岡山天音)の代わりに絵を描いたように、すべては蔦重の隣に立ち続けるためだったのではないか。しかし、蔦重がていを「たった一人の女房」として選び、“本当の夫婦”となった瞬間、歌麿ははっきりと理解してしまった。自分はその“特別”にはなれないのだと。だからこその涙だったのである。

 史実では、実際の喜多川歌麿は蔦屋重三郎のもとで1790年前後に『ポッピンを吹く娘』で知られる『婦女人相十品』や『歌撰恋之部』といった美人大首絵の傑作を次々と発表し、浮世絵の歴史に革命をもたらした。しかし1793年頃から蔦屋との関係は薄れ、西村屋与八や鶴屋喜右衛門など他の版元と組むようになっていく。これは単なる出版事情の変化だけでなく、「共に在る関係の終わり」としても読むことができるだろう。

 興味深いのは、歌麿がその後も自分の表現を進化させ続けたことだ。たとえ“誰かのたった一人”にはなれなくても、“描くことで自分を残す”道を選んだとも考えられる。文化元年(1804年)には『絵本太閤記』関連の錦絵で手鎖の刑を受け、その2年後に失意のうちに亡くなるが、最後まで筆を置くことはなかった。

関連記事

リアルサウンド厳選記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「作品評」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる