“震災もの”としての『おむすび』の新規性 被災を追体験する連続ドラマならではの演出

“震災もの”としての『おむすび』の新規性

 NHK連続テレビ小説(以下、朝ドラ)『おむすび』は、栄養士を目指すギャルの米田結(橋本環奈)の物語だ。

 本編開始時点で、福岡県の糸島で暮らす結は幼少期は神戸で暮らしており、1995年の1月17日に起きた阪神・淡路大震災を体験している。

 結は現在は家族と共に神戸に戻り、栄養士になるため専門学校に通っている。街は復興し、再会した商店街の人々は明るかったが、会話の節々に震災の爪痕が見え隠れする。

 結が神戸で被災したことは第5週まで伏せられていた。米田家の家族が過去に神戸に住んでいたことは、会話の節々から伝わってきたが、神戸に住んでいたときのことは触れてはいけないという空気が家族の間に漂っていた。

 現在の結は、ギャルになったことで自由に話せるようになったが、序盤は表情も暗く、何かに熱中してもいつか全て失われてしまうという厭世感を内面化していた。

 彼女が幼少期に神戸で被災したことは、事前の宣伝等ではアナウンスされていたため、被災体験が彼女のバックボーンにあることは想像できたが、そのことを全く知らない人は「言動の一つ一つがいちいち過敏すぎないか?」と結に感じていたのではないかと思う。

 『おむすび』第1週では幼少期のエピソードが描かれなかったが、他の多くの朝ドラが幼少期から始まるのは、視聴者がヒロインの存在を身近に感じてもらうためだ。

 ヒロインが幼少期に後の人生を左右する出来事を体験する姿を観ることで、視聴者は主人公に感情移入できる。『おむすび』ではその幼少期を伏せたことで、結の根底にある気持ちが視聴者にわからない状態で話が進むのだが、第5週でやっと、彼女の根幹にある被災体験が語られた。

 なぜこのような時系列で結の被災経験を本作は描いたのか? おそらく、被災者の体験を私たちが聞いて、その内実を知っていくというプロセス自体を追体験してもらいたかったからではないかと思う。

 震災に限らず、人生観を大きく変えてしまうような圧倒的な体験をした場合、多くの人は言語化できるようになるまで時間がかかる。特に友人や家族を亡くしている場合は尚更だ。現在はSNSがあるため、自分の体験を発信している方も少なくないが、大半の人は、日々の暮らしで精一杯で、多くは語られないまま、個人の記憶の中に沈澱していく。

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