菊地健雄監督と振り返る、渋谷のミニシアター文化 「シネマライズは特別な空間だった」

菊地健雄監督と振り返る渋谷のミニシアター

渋谷を中心に巻き起こっていた「新しい作家主義」

――ちなみに、その当時観た映画で、菊地さんに今も大きな影響を与えている映画と言ったら、どんな作品になるでしょう?

菊地:シネマライズで最初に観た『アンダーグラウンド』はもちろんですけど、ラース・フォン・トリアーの『奇跡の海』(1996年)……まあ、シネマライズは、是枝裕和監督の『ワンダフルライフ』(1998年)くらいまで、ほとんど日本の映画をやらなかったんですけど、僕は当時の日本映画からも、やっぱり大きな影響を受けていて。これは渋谷じゃなくて新宿で観ましたが、去年亡くなってしまった青山真治監督の『Helpless』(1996年)には、すごく衝撃を受けました。黒沢清監督の『CURE』(1997年)も、確かその頃ですよね。今はシネクイントになっている渋谷シネパレス(1992年開館、2018年閉館)で観たのかな? 当時は、そこまでお客さんは入っていなかったような気がしますけど。

――両作品とも、その頃だったんですね。

菊地:そう。でもまあ、当時の渋谷を象徴する監督と言ったら、やっぱりウォン・カーウァイになるのかな? シネマライズでは、『天使の涙』(1995年)と『ブエノスアイレス』をやりましたけど、香港映画っていうと、それまではどうしてもカンフーとか、あるいはジョン・ウーの『男たちの挽歌』(1986年)のような、男くさいものが多かったじゃないですか。そういう中で、『恋する惑星』(1994年)は、シネマライズではなかったですけど、あのスタイリッシュさみたいなものが、当時の渋谷の街の雰囲気に、ピッタリ合っていたような気がしていて。

――確かに。

菊地:僕が高校生の頃って、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(1984年)のジム・ジャームッシュとかタランティーノ、あるいは『グラン・ブルー』(1988年)のリュック・ベッソンとかカラックス、あと『ベティ・ブルー』(1986年)のジャン=ジャック・ベネックスとか、アメリカだったりフランスだったりっていう、古くから映画を製作している国のコアなインディペンデント作家みたいな人たちに注目していたんですよね。だけど、シネマライズによって他の国の作家たちにも目を向けるようになりました。それこそクストリッツァはバルカン半島の人だし、トリアーはデンマークの人だし……。

――ホウ・シャオシェンやエドワード・ヤンなど、台湾ニューウェイブの作家たちも、その頃に紹介されて、すごく人気でしたよね。

菊地:そうですね。台湾ニューウェイブの作家たちには、自分も多大な影響を受けていると思います。さっき言った、イランのキアロスタミや、フィンランドのカウリスマキも、その頃に紹介されて、すごく印象に残っていて……だから、日本以外の国、しかもアメリカでもフランスでもない国の映画っていうのを、わりとその頃の渋谷で観ていた記憶が、すごくありますよね。

――それこそ、菊地さんがシネマライズで働いていた頃……1998年には、『ムトゥ 踊るマハラジャ』(1995年)の大ヒット(※シネマライズで23週にわたって限定公開されたあと、全国のミニシアターで公開。大ヒットを記録した)もありました。

菊地:あれはホント、すごかったです(笑)。何でこの映画をシネマライズでやるんだろうとか、誰が観にくるんだろうって、実は僕らバイトのあいだでは、すごく懐疑的なところがあったんですけど(笑)。「これ、大丈夫ですか?」って。だけど、オーナーで番組編成も担当していた頼(光裕)さんは、「絶対ヒットするから」って言っていて……、公開したら実際大ヒットして、一番ピークの頃はお客さんの列がスペイン坂の下のほうまで続いていて。それがバイトとしては、結構大変だったんですけど。要するに、スペイン坂の途中にあるお店から、散々クレームを受けるっていう(笑)。

――(笑)。近年、『バーフバリ 王の凱旋』(2017年)や『RRR』(2022年)のヒットで、大きな注目を集めているインド映画ですが、『ムトゥ』はその先駆けだったと言うか、相当早かったですよね。

菊地:そのあたりはホント、オーナーである頼さんの「時代を読む目」というか……シネマライズの番組編成って、すごく独特だったんですよね。ある程度、当てにいっているものと、頼さんたちの趣味というか、ヒットは望めないかもしれないけど、これは本当に好きな映画だからやろうっていうものが、すごく明確に分かれていて。

――『ムトゥ』は、どっちだったのでしょう?

菊地:あれは多分、当てにいったんじゃないかな(笑)。それまでの並びから見ても……その前って、ニック・カサヴェテスの『シーズ・ソー・ラヴリー』(1997年)とか、ジョニー・デップが監督もやった『ブレイブ』(1997年)とか。どっちもいい映画だったけど、お客さんの入りは、正直それほどでもなくて。その年は、『ムトゥ』一本で、完全に巻き返したんですよね(笑)。あそこまで楽天的なエンターテインメント作品って、シネマライズでは、他になかったような気がするし。やっぱり、シネマライズと言ったら、作家性の強さとか、他の映画館では絶対かけないような作品をかけるイメージがあったじゃないですか。それこそ、ハーモニー・コリンとか……あ、ハーモニー・コリンの『ガンモ』(1997年)って、まさに『ムトゥ』と同時期にやっていたのか(笑)。

――『ガンモ』の公開は、1998年の10月なので、確かにちょっとカブっていたみたいですね(笑)。

菊地:すごいですよね(笑)。それもまた、シネマライズならではというか。でも、ハーモニー・コリンっていうのは、まさしくその時代のシネマライズを象徴するような作家だったと思っていて。『トレインスポッティング』やコーエン兄弟の『ファーゴ』(1996年)、『ビッグ・リボウスキ』(1998年)とかは、すごくシネマライズらしい映画でありつつも、ある程度当てにいっている感じがあったというか。ダニー・ボイルとかコーエン兄弟って、その頃のミニシアター文化全体を象徴するような存在だったじゃないですか。

――そうですね。

菊地:でも、『ガンモ』は、それとはまた、ちょっと違っていて……や、『ガンモ』には、めちゃめちゃ影響を受けたかもしれないです。当時リアルタイムで観た、どの作品よりも、わけがわからなかったので(笑)。だけど、何かすごいものを観てしまったっていう感じはあって。今、考えたら、同じ時期に観たどの作品よりも、インパクトが強かったかもしれないです。

――それこそ、当時の日比谷や銀座では、絶対やらないような映画でしたよね(笑)。そのあたりは、当時の渋谷ならではというか。

菊地:そうですね。あと、シネマライズにおけるハーモニー・コリンがまさにそうだったけど、90年代の後半ぐらい……僕がシネマライズで働いていた頃から、「新しい作家主義」みたいなものが、渋谷を中心に巻き起こっていたような感じがあって。世界中から新しい作家を発掘して、それを日本に紹介しながら、なおかつ一度この作家だって決めたら、割とそこはしっかり、どんなことがあってもやり続けていくというか。ハーモニーが『ガンモ』のあとに撮った『ジュリアン』(1999年)とか『ミスター・ロンリー』(2007年)も、ちゃんとシネマライズでやっているんですよね。そのあたりは、オーナーである頼さんの熱意というか。それは、自分のところで配給するどころか、カラックスやキアロスタミの映画に出資までしているユーロスペースの堀越(謙三)さんとかも同じで。そういう映画館サイドの人たちの熱意と尽力が、当時のミニシアターブームの背景にはあったし、それがあの盛り上がりを支えていたようなところも、間違いなくあったと思います。

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