『BEEF/ビーフ ~逆上~』は分断の先に手を伸ばす A24が贈る“私たちの分身”による群像劇
それは貧富の差によるものではない、といったメッセージも、『BEEF/ビーフ ~逆上~』からは感じられる。成功した実業家=リッチな人間であるエイミーも、どん詰まりの個人事業主=プアな人間であるダニーも共に空虚感に苛まれ、幸福を求めている。充実感をもって毎日を生きたいし、自らの枷を外したいし、不安がなくなる日を望んでいるが、まだ訪れない。それはこの2人に限った話ではなく、アーティストとしての才能がないコンプレックスを抱えるエイミーの夫、スタイルは抜群だが働き口がないエイミーの部下、何不自由ない生活のはずなのに孤独感から逃れられないセレブ妻等々、劇中の世界に生きる多くの人間が理想と現実のギャップに苦しんでいる。
笑いと哀しみのハイブリッド、貧富の格差といったテーマなど『パラサイト 半地下の家族』に共通する部分も多い『BEEF/ビーフ ~逆上~』だが、前者が「富者だからこそピュアでいられる」といった言及がされるのに対し、後者は富者も貧者もすべからく満たされていない。「幸福になりたい」という渇きは共通事項なのだーーと考えると、より絶望的な作品といえるかもしれない。
ただ、「富を得ても不幸」という点では暗澹たる気持ちにさせられるのだが、一方で『BEEF/ビーフ ~逆上~』には希望も込められている。それは、同じ痛みを共有しているため本当は分かり合えるという部分。
ダニーとエイミーはあの手この手でお互いを陥れようと躍起になるが、その姿はどこか生き生きとして見える。ストレスを抱える者同士がはけ口を見つけたとき、本人も無意識のうちに救済されているというのは理に適った話で、実際問題ダニーとエイミーはお互いに対して生の感情=本音をぶつけ合える間柄になっていく。取り繕う必要がないという意味では、感情剥き出しの衝突はある種のセラピーとして機能しており、ダニーとエイミーは共依存関係ともいえる。ヤマアラシのジレンマ(距離が近づくほどに互いを傷つけ合う現象)ではないが、傷つけあうのはどこか似た者同士だからなのだ。そしてこの“似た者同士”は性格云々といった単純な話ではなく、共に試練と向き合っているという同時代性につながる。だからこそ和解を越えて、連帯できるのではないかーー。
対話と相互理解は近年の映画における重要なトピックだが、『BEEF/ビーフ ~逆上~』はその系譜を受け継ぎながら、分断の先に手を伸ばそうとしている。
■配信情報
『BEEF/ビーフ ~逆上~』
Netflixにて配信中