『BEEF/ビーフ ~逆上~』は分断の先に手を伸ばす A24が贈る“私たちの分身”による群像劇

 2022年に設立10周年を迎えたアメリカの映画会社「A24」。2017年の第89回アカデミー賞作品賞・脚色賞・助演男優賞に輝いた『ムーンライト』やネット上でバズを巻き起こした『ミッドサマー』で日本でも名の知られた存在となり、2023年の第95回アカデミー賞では『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』が作品賞・監督賞・主演男優賞・助演男優賞・助演女優賞・脚本賞・編集賞を含む最多7冠を達成。そして『ザ・ホエール』が主演男優賞とメイクアップ&ヘアスタイリング賞の2部門を受賞し、A24作品が席巻した。

 ちなみによく言われる「A24作品」には「米国の配給を手掛けた」ものと、「製作も手掛けた」ものがある。ざっくりいうと「買ってきた」ものと「作った」ものだ。どちらのパターンでも成功を収めているA24は、業界屈指の“目利き”が揃うスタジオであり、オリジナルグッズ展開やプロモーションの上手さ、マーケティング力の高さも含めて唯一無二の存在となった。

 そのA24がアカデミー賞授賞式直後に放つのが、Netflixオリジナルシリーズ『BEEF/ビーフ ~逆上~』(全10話)。『ミナリ』のスティーヴン・ユァン、『アリ・ウォンの魔性の女になりたくて』のアリ・ウォンが共演し、ユァンとウォンが共演したNetflixアニメ『トゥカ&バーティー』の脚本家リー・サング・ジンが監督を務めたほか、『37セカンズ』のHIKARIがエピソード監督として参加した。A24はHBOと『ユーフォリア/EUPHORIA』、Apple TV+と『マクベス』『その道の向こうに』などで組んでおり、様々なプラットフォームと多角的な展開を行っている。本作もその一環であり、気鋭のクリエイターと米国ではレアなタイプの作品を作るA24の“らしさ”が感じられる。

 A24が製作を手掛けた『BEEF/ビーフ ~逆上~』は端的にいうと、リベンジものだ。ホームセンターの駐車場でぶつかりかけたドライバー2人が、タイトル通りに“逆上”してあおり運転を起こし、そこでは収まらずに度々衝突。徐々に行動がエスカレートし、BEEF(ディスり合い)の収拾がつかなくなっていく……というのが序盤の流れ。現実でありそうな個人間のトラブルが大事に発展していくという意味では、車線変更を発端とした『チェンジング・レーン』など、日常スリラーの一種といえる。ただ本作の真骨頂は、その“先”と“裏”にあるといっていい。ただバトルを繰り広げていくのではなく、「憎悪の先に何が待つのか」という提起や哀しみ、「なぜ怒りを抑えられないのか?」に関連する各々の背景が1話約35分、全10エピソードで語られていくのだ。

 そこに、経済格差や人種(に紐づく文化的な属性)なども絡み、物語はやがて重層的なヒューマンドラマへと発展。視聴者が“野次馬根性”でとっつきやすい「あおり運転から生まれる男女の確執」から始まり、徐々にディープな“孤独”や“空虚”の群像劇へと変態を遂げていく。観ている我々の心持ちも、序盤こそブラックコメディタッチな小競り合いを冷笑的に観られるものの、中盤以降は各々の痛みを知り、他人事として笑えなくなってしまう。ダニー(スティーヴン・ユァン)とエイミー(アリ・ウォン)に対する距離がどんどん近づき、連動して同情や共感が強まり、中には2人と同化した錯覚を覚える人もいるだろう。

 ダニーは不幸体質というか、何をやってもうまくいかない労働者だ。身内のトラブルで事業が失敗し、両親は祖国の韓国へと戻ることに。土地を買って2人を呼び戻したいと焦燥感に駆られるも、先立つものがない。金さえあれば……と思っていたときにエイミーに挑発され、怒りの沸点を越えてしまう。

 対するエイミーは優秀な経営者だが、本人は早く自社を売却して家族と過ごしたいと考えている。家事や育児は夫に任せざるを得ず、申し訳なさを日々感じている彼女は(自身の両親に対するコンプレックスもあり)、商談がなかなかうまくいかないことに苛立ちをおぼえ、駐車場でぶつかりかけたダニーに八つ当たりしてしまう。

 ダニーとエイミーは、正反対な人間に見えて多くの要素を共有している。長男・経営者として「家族を守らねば」、妻・経営者として「理想の振る舞いをせねば」という“縛り”を自らに課してしまっているふたりは、本当に欲しいものが手に入らず日々を我慢して生きている。抑圧の渦中にいる両者の人生が交錯したとき、処理しきれていない感情が爆発してしまうーー。この事象自体は、十二分に理解できるどころか我々自身にも当てはまるものではないか? 発芽する=一線を越えるか・越えないかだけで、その根は多くの人々の心に巣食っている。『BEEF/ビーフ ~逆上~』は、現代社会に漂う空気感=気分を的確にとらえた作品といえるだろう。

 その部分を強く感じさせるのが、「幸福の渇望」だ。憎悪の連鎖にどこで終止符を打つのか、憎み続けるなかで生まれてくる徒労感を描いた近年の作品といえばマーティン・マクドナー監督の『スリー・ビルボード』『イニシェリン島の精霊』、𠮷田恵輔監督の『空白』『神は見返りを求める』が挙げられる。赦せなさという意味では、銃乱射事件の被害者両親と加害者両親の対話を描く『対峙』もその一種といえるかもしれない。

 人が亡くなる事件を発端にした『スリー・ビルボード』『空白』『対峙』に対し、『BEEF/ビーフ ~逆上~』は個人間の八つ当たりと仕返しの応酬のため、程度的には遥かに軽い。だからこそ浮き彫りになるのは、登場人物の「幸福になりたい願望」と、「幸福になれない現状」だ。ダニーとエイミーは、我慢しようと思えばできるかもしれないが、我慢できないところまでストレスを溜め込んでしまった“私たちの分身”=普通の人々の化身ともいえる。いまを生きる人々の心の断面図が多少デフォルメされただけで、構造は同じーー。ストレスフルな2人の姿を通して、時代の一側面が立ち上がってくるのだ。

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