『映画ドラえもん のび太と空の理想郷』に内包されていたシビアで恐ろしいメッセージ
タイトルの「のび太〜」の後に「と」が来るのは、2012年の『映画ドラえもん のび太と奇跡の島 〜アニマル アドベンチャー〜』以来だ。「と」と「の」に明確な法則があるとはなかなか言い難い部分もあるが、これまでの『映画ドラえもん』を観てきた限り、タイトルになる事柄の主体にのび太たちがなっているか否かで概ね分類することができよう。それを踏まえると、この2023年の『映画ドラえもん のび太と空の理想郷(ユートピア)』(以下、『空の理想郷』)は、すでに誰かが構築した“ユートピア”にのび太たちが赴き、そこで起こる出来事に巻き込まれるかたちの物語であるとわかる。
いずれにせよ、何もかもがパーフェクトで夢のような“理想郷=ユートピア”を舞台にした大冒険という時点で、何かとんでもないことが起きるという予感は避けられない。それは外連味たっぷりの娯楽作を得意としてきた古沢良太によるオリジナル脚本であるという点はもちろんのこと、いまだかつて“ユートピア”を舞台にした物語において、現代の誰もが思い描くようなタイプの“ユートピア”が存在した試しがないといっても過言ではないからだ。
そもそも“ユートピア”とは、その言葉から連想されるほのぼのとした平和でフリーダムな世界かといえば、そうとは言い切れない。劇中でも触れられたトマス・モアの『ユートピア』においてのそれは、争いも競争もなく、人間の個性を奪った共産主義的な管理社会の理想像のようなものである。それこそ藤子作品と“ユートピア”の歴史を辿れば、70年前に藤子・F・不二雄が藤子不二雄Aと共に手掛けた初期の作品『UTOPIA 最後の世界大戦』にまで遡ることになり、そこにあるのはロボットに支配された文明社会という悍ましいユートピアの姿なのである。
ドラえもん自体がロボットであるという大前提を置いておくとしても、“ユートピア”を描く物語となれば、そこにロボットの存在が関与することになるのは必然といえよう。そこで今回の映画で物語を左右させる大きな主題のひとつとなっているのは、ユートピアを探し求めて“パラダピア”を見つけたドラえもんやのび太たちを(少々手荒く)迎え入れるパーフェクトネコ型ロボットのソーニャ。このロボットに“心”があるのかということである。
思い返してみれば、あらかじめ人間と友達になるというプログラムがされたドラえもんとのび太たちの友情を軸にしてきた作品でありながらも、映画シリーズにおけるロボットの描かれ方というのはおもしろいほど両極端である。1986年の『ドラえもん のび太と鉄人兵団』(以下、『鉄人兵団』)では人間を奴隷とするために暗躍するロボット兵たちを鏡面世界に追いやって激闘を繰り広げ、2002年の『ドラえもん のび太とロボット王国』では対照的に人間がロボットを奴隷にしようと“心”を抜き取る計画のなかへと巻き込まれていくのび太たちの姿が描写された。
今回の『空の理想郷』においては“心”を持たないような状態こそが“パーフェクト”であるという末恐ろしい洗脳計画の魔の手が、ロボットに対しても人間に対しても及んでいる。すなわち『ロボット王国』と同様、ロボットはあらかじめ“心”を持つものであるという前提がそこにあることは明白なわけだ。『ドラえもん』の連載開始後の1979年に発表された藤子・F・不二雄の短編『マイロボット』では、組み立てたロボットが感情をもったことで“完全な人造人間(パーフェクトなロボット)”だと表現されていただけに、40年余りで180度変わったのだと改めて思い知らされる。