『鎌倉殿の13人』のキーワードとなる「天命に逆らうな」 三谷幸喜の巧みな脚本構造を分析

『鎌倉殿の13人』脚本構造を分析

「天命に逆らうな」

 第45回における大竹しのぶ演じる歩き巫女の言葉がしばらく耳に残っていた。人は何をもってそれを「天命」と定めるのだろう。実朝(柿澤勇人)は、公暁(寛一郎)は、何を「天命」としたのだろう。自分の死を予感させる「鐘の音」に怯え懸命に天命に抗おうとしていた頼朝(大泉洋)の最期を思い出す。

 片や、夢で「鐘の音」を聞くも「白い犬に救われた」義時(小栗旬)が、実際に死を免れ「天に生かされた」と感じ、「まだやらねばならぬことがある」と言ったのもまた、彼なりの「天命に従う」ということ。失意の政子(小池栄子)に対し、「私たちは正しかった、いつだって」と言う義時。政子からすれば、勝手に共犯にするなという話だが、そう自分を奮い立たせなければ立っていられないほど、彼らはだいぶ長い年月を生き抜いてきた。

 生きるということ。それはたくさんの選択を迫られることでもある。この道でよかったのか、もっと別の道があったのではないか。長く生きれば生きるほど、振り返らずにはいられなくなる。「これが天命」と信じること。それもまた、一つの選択であり、結局は自分の人生を動かすのは自分自身なのだ。常に命懸けの選択を迫られる彼らの生きている時代と比べれば、極めて平穏な時代を生きていて、彼らほど夢や占いに左右されない視聴者の人生においてもそれは言える。「天命」に惑う彼らの生き様は、私たちの人生とも繋がっているような気がするのである。

 さて、史実上でも有名な鶴岡八幡宮で起きた悲劇、公暁による実朝暗殺に辿りつくまでの出来事が、第44回・第45回の2回にわたって描かれた。史実の点と点を線でしっかり結びつつ、自由自在に飛躍する創造力。なおかつ、歴代将軍を巡る「髑髏」や、義時の顔の変化を巡る運慶(相島一之)のエピソードなど、これまで随所において散りばめられてきた定点観測的事柄が、人物描写により一層の深みをもたらす、三谷幸喜脚本の秀逸さここに極まる2つの回であった。本稿は、前述した歩き巫女の「天命に逆らうな」という言葉が持つ意味について分析することで、その巧みな構造を考えてみたい。

 まず、前提として、物語自体の「天命」である。物語自体の「天命」とはすなわち、抗えない「史実」のこと。「雪の日に起こる悲劇」をかなり前の段階から予見していた歩き巫女は、シェイクスピア『マクベス』における3人の魔女のように未来を予見する人物であり、視聴者は、いわば彼女を狂言回しとして、和田合戦を経て「雪の日の悲劇」に辿りつくまでの物語を見てきたとも言える。

 しかし物語は、「その日」を描く第44回で思わぬ飛躍を見せる。実朝や公暁といった登場人物たちが、まるで自らの「天命=史実」から抗おうとするかのような、予想外の行動を見せ始めたからだ。特に、実朝が公暁に会いに行き、これまでのことを詫び、「我らで力を合わせようではないか。父上がお作りになったこの鎌倉を、我ら源氏の手に取り戻す」と言いだしたこと。その時物語は、1つの「あったかもしれない世界」を見せる。かつて平家を滅ぼした頼朝・義時らのように、北条牛耳る鎌倉を、義時から彼らが取り戻す未来を。泰時(坂口健太郎)がそんな彼らを支える「夢のゆくえ」のその先を。そんな一瞬の夢想は、実朝を信じ切れなかった公暁の憎しみの表情を前にして消える。その後、存外に動き過ぎた物語を落ち着かせるかのように、全てを超越した存在である歩き巫女は、この鎌倉という舞台の上に立っている登場人物全員に対して言って回っているようにも見える。「天命に逆らうな、天命に逆らうな」と。

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