『雨を告げる漂流団地』『みなさん、さようなら』など、“団地映画”の普遍性を読み解く

団地映画の普遍性と魅力

 取り壊し直前の廃団地に忍び込んだ小学生たちを乗せて、団地が突然大海原を漂流する。そのプロットを聞いただけで心が弾む。Netflixで配信中のスタジオコロリドのアニメーション映画『雨を告げる漂流団地』には、最近のアニメ作品によくある設定の強さ以上に、“団地”という数十年前の人々が練りに練って計画した特殊な世界への愛着と、海という人智が及ばない巨大なものへの畏怖、そして失われていくものへのノスタルジーが詰め込まれている。

『雨を告げる漂流団地』

 この作品を手掛けた石田祐康監督は、制作に取り掛かる前から実際に団地で生活をしているという話だ。筆者は彼の長編デビュー作である『ペンギン・ハイウェイ』の取材の際に一度お会いしたことがあるのだが、その時に同行したカメラマンも含めて同学年であるということで話が弾んだ。我々のような昭和と平成のちょうど境目あたりに生まれた世代にとってみれば、“団地”というものは物心ついた時にすでに廃れに廃れていて、最も多感な時期にそれらが現代的なビルディングに建て替えられていくさまを見てきたのである。

 ようするに栄華を極めている時期など知ることもなく、ただ同じような構造物が並んだ居住空間に過ぎず、“昭和の面影”といえば聞こえはいいが、端的に言えば古くさい場所というイメージを与えられてきた世代だ。近年はリノベーションなどで生まれ変わる団地もちらほらと見受けられるが、それは本当にここ何年かの話である。新しさを求める人類は、いとも容易く過去のものを捨て去ってしまうものだ。

 そもそも“団地”というシステムは、戦後から高度経済成長期の日本の生活文化の発展に大きく貢献してきたものである。都市部へのアクセスがしやすい場所に巨大な集合住宅群を作り、住宅不足を解消すると同時に人口増加に対応していく。当時としては近代的な建物や住宅設計は若い世代に人気を博し、彼らにとっては親世代から独立した場所で新たな生活を始められる、ステータスのようなものであったわけだ。

 いまでこそマンションなどの集合住宅では“ご近所付き合い”が疎かになっていると言われるが、同じような年代の若い家族がこぞって集まり、広大な団地の敷地内には公園や小学校などの教育施設も併設されるとなれば話は別だ。マーケットも設けられることで強固なコミュニティが形成され、もはや“団地”は単なる住居ではなく、ひとつの独立した“世界”として各地に存在していったといえよう。

団地への招待 (1960)【高画質・公式完全版】

 そんな“団地”を、映画はこれまでどのように描いてきたのか。その関係を辿るならば、まずは団地ファンの間では知らない人がいない1960年制作の啓蒙映画『団地への招待』から触れていく必要があるだろう。高い倍率の抽選をくぐりぬけて東京・練馬区にあるひばりが丘団地に暮らすことが決まった若い夫婦が、先に団地で生活をしている兄夫婦の元を訪れるという一日の様子を収めるこのフィルムでは、団地という最先端の理想郷で暮らすということはどういうことであるかをひたすら紹介されていく。

 それまでの日本家屋と異なり機密性が高く、湿気も多いから風通しを良くしておかなければ家具がダメになってしまう。風呂を沸かしたりストーブを焚く時には換気をしなければ危険だということなど、生活の注意点が挙げられながらも、構造的な欠陥を棚に上げて“工夫を凝らして”生活すればいいという自助を要求する。さらにおしゃれなサラダとカクテルを嗜みレコードを聴くという文化的で明るい生活が担保されていることがアピールされていくのである。もちろんこれは団地への移住を推し進める啓蒙映画なのだから、こうした新しい暮らしに憧れを抱かせる作りをしているのも当然である。

 同じ頃から劇映画にも頻繁に団地が登場するようになるのだが、そこには『団地への招待』で描かれたようなステップフォード(2度映画化されたSF小説『ステップフォードの妻たち』(早川書房)に登場する理想的な住宅街のことである)的な様相はなく、多くの人々が同じ建物のなかで暮らすことの難しさや、人間の生々しさがユーモアや悲哀入り混じりながら描写されていくのである。

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