実写版『ピノキオ』にみるディズニーの価値観の変遷 リメイクに求められる“現代性”とは
今を生きる私たちは、世界をよりよくして行こうとする流れの中で日々を過ごしている。既存の価値観をアップデートし、未来の子どもたちがさらに生きやすくなるよう努めているのはディズニーのエンタメ作品も同じだ。
先日ディズニープラスで配信された実写版『ピノキオ』は、ディズニーが1940年に制作したアニメーション作品『ピノキオ』をもとに実写化した作品。基本的なストーリー展開はアニメ版に準拠していたものの、随所でオリジナルの設定が採用されていた。本作の特筆すべき変更点は、ゼペットが過去に妻と子を亡くしていることと、ピノキオが“本物の人間の子どもに姿を変えることが重要ではない”という結末だ。アニメ版では子どものいないゼペットが、本物の子どもが欲しいと願ったためピノキオは最終的に人間の子どもに姿が変わっている。しかし本作ではゼペットが星に願う内容が明確に描かれず、ピノキオもジミニーも、そして願いを聞いたはずのブルー・フェアリーでさえ「ゼペットはピノキオに本物の“人間の”子どもになってほしいのだ」と勘違いしたままストーリーが進んで行く。
物語終盤、ゼペットはピノキオに対し“ありのままのピノキオ”を望んでおり、そして本物の“人間の”子どもではなく、本物の“自分の”子どもになってほしいと望んでいたことが明かされる。自我と個性を持ち、良心を学び家族のため突き進んで行くピノキオは「本物の人間の子どもになること」にのみ自身のアイデンティティを見出そうとするが、そんな必要はないとゼペットはきっぱり断言する。“本物”という価値観は良し悪しを決める指標にもなり得てしまうため、多様性が尊重される現代にふさわしい価値観とは言えない。本作のように、ディズニーは過去にも自社のアニメーション作品を原作に多くの実写版を制作しているが、そのどれもが制作時の価値観や多様性を軸にリライトされている。
特に印象深い実写化作品は、真実の愛がプリンセスとプリンス、血の繋がった家族間のみにあるのではないと描いた『マレフィセント』(2014年)や、“普通”の枠にはまらないキャラクターを増やし、変わり者が爪弾きにされることの違和感を顕著にさせた『美女と野獣』(2017年)、キャラクター性を強め「自分が国王になる」という意志のもと、決して信念を曲げず突き進むプリンセスが描かれた『アラジン』(2019年)だ。これまでの実写作品ではアニメ版から何段か階段を登った先の設定が盛り込まれ、よりよいキャラクター表現となるように説得力のある描写が付け加えられて来た。また『シンデレラ』(2015年)の継母を始め、近年ではヴィランというポジションにもより多面的なバックボーンが用意され、些細な違いのみで正義と悪の道が変わってしまうことも描かれている。アニメ版から愛され続けるヴィランズに、キャラクターとしての解像度を上げることで共感できる要素を加え、「悪とはなにか」に一歩踏み込んで描いているのも実写版の存在意義に繋がる。