『学校の怪談』がある夏休みはどんな娯楽よりも有意義! 記憶に残る、ほどよい曖昧さ

『学校の怪談』がある夏休みの喜び

 『学校の怪談』シリーズはホラー映画なのか否か、そんな話を以前誰かとしたことがある。同じシリーズでありながらも4作品共に作品のテイストは微妙に異なっていて、筆者個人としては、『学校の怪談』(1995年)がファンタジーで、『学校の怪談2』(1996年)がコメディ、『学校の怪談3』(1997年)は友情と初恋を描く青春映画で、『学校の怪談4』(1999年)はヒューマンドラマであるといったような感触だ。いずれも幽霊の類は出てくるし、明らかな恐怖描写と呼べるものもある。とはいえ子供心に“怖い”ものはあっても、それはどこか懐かしさを携えたファンタジックなもので、記憶の中には穏やかに残る。このほどよい曖昧さは、“ジュブナイルホラー”というジャンルの特権ではないか。

 いまではすっかり見かけなくなってしまった“ジュブナイルホラー”。ちょうど筆者は、そのジャンルを存分に享受できた世代の小学生だった。1年生の夏休みに『学校の怪談』が公開され(実際に観たのはビデオが出てからだったが)、2年生で『学校の怪談2』(父と姉と映画館に観に行った)、3年生で『学校の怪談3』があり、4年生の時には東映系で『新生トイレの花子さん』が公開(これは姉と二人で観に行った)。5年生で『学校の怪談4』(ひとりで行った映画館で列にならんでいた時に出会った同世代の兄弟と一緒に観た)ときて、6年生の夏にはNHK教育の「ドラマ愛の詩」で『六番目の小夜子』が放送。映画館では“ホラー”を卒業し、SFの文脈で成長を物語る山崎貴の『ジュブナイル』(2000年)と出会うのである。

 東宝邦画系(いまではこの“系列”の考え方も古くなってしまったが)の夏休み映画=小学生のためのものであったのは、この2000年までであろう。それ以後は決して頻繁にとはいかないものの、定期的にテレビ放送されるようになった『学校の怪談』シリーズは、いまでも“夏の風物詩”として語られる。もはや作品に含まれるノスタルジーは、同型の作品が失われてしまったことと相まって年々強まっていると思わざるを得ない。なるほどこれがいま話題の「平成レトロ」というやつだろうか。

 厳密に言えば、シリーズの中で唯一“夏休みの始まり”を描いたのは1作目の『学校の怪談』だけである(2作目は春休み、3作目は秋の運動会シーズンで、4作目は夏休みが終わりに近付いたお盆の時期が描かれる)。終業式が終わり、絵の具箱を取りに学校に戻った2年生の美夏は、不思議なサッカーボールに導かれるようにして取り壊し寸前の旧校舎へと入っていってしまう。美夏を探しにきた5年生の姉・亜樹は、クラスメイトの悪ガキ・研輔と将太、旧校舎の外で魔法陣を書いていた4年生の均、そして6年生の香織と遭遇。美夏を見つけられないまま、旧校舎に閉じ込められてしまうのである。

 先述の“ジュブナイルホラー”というジャンルをあえて押し出さずとも、当時は小中学生が楽しめる度合いのホラー作品(ないしはテレビ番組)がたくさんあった。そのどれにも共通していたのは、限りなく身近な学校での怖い話というもので、比較的現代的なものから古い伝承のようなものまで多岐にわたっていた。むしろどこの学校にも大抵そういう噂があったぐらいで、自分の通っている学校にはないだろうかと必死になって探したりもしたものだ。

 こうした“学校の怪談”と呼ばれる噂がひとしきりカバーされているのが『学校の怪談』シリーズであり、もっと言えば、その多くが1作目に概ね集中している。冒頭に登場するメリーさんからの電話や、赤い服の花子さん。中盤のシーンで登場する動く人体模型(これは普通に怖い)。クライマックスで立て続けに登場する口裂け女やベートーベンの幽霊。噂に聞くものが視覚的に具現化されたことのワクワク感は、たとえ“怖い”ものであっても容易くそれに勝るものがある。

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