Netflix映画『モラルセンス』が描く、受容の物語 BDSM作品としての懸命さも
突然だけど、性的嗜好って人の数だけあると思う。島倉千代子が人生も男も女もいろいろだと歌っていたが、性的嗜好もいろいろだ。それぞれが、それぞれの好みを持っている。しかし、それは時折 “モラルセンス”、つまり“道徳心”によって批判されることがある。もちろん、犯罪行為につながるものであれば話は別だが、なぜ我々は自分の性的嗜好に後ろ指をさされなければいけないのだろう。それによって、本当の自分を受容してもらえず、生きづらい人も一定数いるはず。そんなことを描いたのが、Netflix映画『モラルセンス ~君はご主人様〜』だ。
主人公のチョン・ジウ役に少女時代のメンバーとしても知られるソヒョン、そしてチョン・ジフ役にU-KISSのイ・ジュニョンを迎えた本作。子供向けの教育番組の広報を担当する部署に移動してきたジフ。しかし、彼の荷物を名前の間違いで超真面目社員のジウが受け取ってしまう。そこには大きな“首輪”が入っていて……。人当たりも良く仕事もできて、もちろんイケメンなので社内では人気のジフだが、ジウだけが彼の隠し通してきた性的嗜好を知ることになる。そしてそれをバラさないでいてくれる彼女に、「ご主人様になってください」とジフは交渉しはじめ、彼らの契約関係が始まるのであった。
本作の一つのテーマとなっているBDSM。それは、いくつかの嗜虐的性向をまとめた言葉で、それぞれがBondage(ボンデージ)、Discipline(ディシプリン)、Sadism & Masochism(サディズム&マゾヒズム)を意味する。亀甲縛り、首輪、ろうそく、ムチ、拘束……などのキーワードで連想することができるのではないだろうか。さて、本作が見やすい作品になっているのは、そういったBDSMの世界を全く知らない視聴者が、ジウ視点でそれについて正しい知識と考え方を理解することができる点にある。もちろん、もっと複雑でこんなに単純明快な話ではないと思うが、それでもわかりやすく、重要なポイントを説明してくれているのだ。その点が、アメリカ映画『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』(2015年)との大きな違いに思える。
BDSMの描写がある映画としておそらく近年最も知名度の高い『フィフティ・·シェイズ・オブ・グレイ』は、公開当時そのBDSM描写が間違っていると批判されてきた。その間違いが何のことか、『モラルセンス』を観ると少し見えてくるのだ。たとえば、『モラルセンス』ではジフとジウの関係、つまり「ドミナント(支配者)」と「サブミッシブ(服従者)」、通称ドムとサブ(DS)に焦点が当てられる。このDSは人間関係による精神的な面や繋がりが大きく、SM(サディズム、マゾヒズム)は肉体的および感覚的な行為であると説明され、二つの関係に性行為は含まれることが多いが“必須”ではないこと、そしてそれらは全て双方の同意を以ってして初めて生まれる関係であると定義された。なにより、この関係性が恋愛関係になるパターンはあまりない。というより、“難しい”と『モラルセンス』では触れられている。なぜなら、恋愛は関係が“対等であるべき”なのに対し、DSやSMはすでに主従関係などを含む非対等な関係だからだ。
そう考えると、DSだったはずの『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』の2人がやっていたことは実質、肉体的なものを重視するSMだ。もちろん、DSがSMをすることは珍しいことではないが、それは精神的な繋がりや関係、つまり信頼が築けた上での肉体的な快楽を追求する行為であるべきなのだ。『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』のクリスチャン(ジェイミー・ドーナン)は最初から精神的な繋がりは一方的に拒絶し、服従者としての欲ではなく恋心を抱いていた無知識のアナ(ダコタ・ジョンソン)にDSの契約を結ばせた。彼女の恋愛感情に気づいた上で、それを利用したようにも思える。そこにフェアネスがないため、これはもう、アナがサインしたからといって“同意”にはならない。だから、アナは次第に困惑し、精神が壊れ、1作目のラストでその関係性を終わらせようとするのだ。ベルリンでSMのエキスパートとして、プロのドミナトリックス(ドムの女性)として活動するレディ・ベルベット・スティールはThe Hollywood Reporterに寄稿した本作のレビューで「この映画が描くBDSMのマインドセットは全て間違っている」と痛烈批判している。以下、彼女の言葉を引用したい。
「クリスチャン・グレイはこの映画でドミナントとして描かれるキャラクターであるはずだが、彼はドミナントではなくストーカーだ。(省略)彼は常に境界線を侵害している。一方でSMはお互いの境界線を尊重し合うことが全てである」
同レビューには、続いてSMの関係性が両者の同意を持って行われることが最低限のマナーであることにも触れている。また、その道に詳しいハフィントンポストの記者ステファニー・マーカスは映画公開時の記事で、本作を「BDSMを克服すべき病理のように描写している」として批判した。なお、続編に関してはお互いの関係性を見直し、より精神的な関係を育もうとしている2人が描かれるが、確かにクリスチャンのBDSMに対する執着が幼少期のPTSDに近いものという描写が強調されていた。