宮台真司の『ニトラム』評:無差別殺戮事件の背景を神話的に描き出した稀有な作品

宮台真司の『ニトラム/ NITRAM』評

【ミクロな希望とマクロな絶望の果て】

 本作は物語を追うと暗い気持ちになるが、神話的な理解をすると明るくなろう。超越×社交=「なりすまし」の象限のヘレンが、超越×自閉=「世界only」の象限のニトラムを救う、という救済図式が浮上するからだ。ところがその後、僕らは現実の困難を想起して、再び暗くなる。

 訪問診療医の多くが「8050(80代母親が50歳代息子の面倒を見る)問題」に直面する。四象限図式の、「息子」に50代息子が、「母親」に80代母親が、多くは位置する。良心的な資質を持つ医師は「ヘレン」の位置に立ち、80代母親への医療の傍ら、50代息子を精神的に支えてきた。

 ところが80代母親の死で訪問診療業務が行政的に打ち切られることで、「ヘレン」役の診療医に依存してきた50代息子が、激昂する事態が頻発している。ここで明示はしないが、現実に起こった複数の暴力事件がこの図式に当て嵌まる事実を、僕は診察医から直接報告されている。

 だから現場では、診療医が「ヘレン」役をして「息子」に感情的に関わるのを、危険視するようになった。行政というシステムは(今の)業務規定上「ヘレン」役の持続可能性を担保できない。映画のように、飽くまでも生活世界に「ヘレン」役が存在しなければならない。

 だが、超越×社交=「なりすまし」の象限に、位置する者は少数だ。生活世界は必要な頭数を調達できない。同じ理由で、行政がなりすまし象限の「ヘレン役」を派遣すると決めても、それを演じられる者は一瞬で枯渇する。「ヘレン役」が育つ生活世界を構築するしかない。

 それを現実化する道は学校教育だが、学校教育の役割は元々、システムに適応してウマく生きられる人材の養成だから、内在×社交=「社会only」の象限、つまり「母親」象限で機能する他ない。80年代に入る迄は学校外の生活世界に「ヘレン」役がいたので、問題なかった。

 だが80年代の「新住民化」で、生活世界の「ヘレン」役(宮台の「ウンコのおじさん」)は消えた。学校が「母親」象限から「ヘレン」象限に手を拡げる他ないが、その問題意識持つ教員は、同じ「新住民化」で、「母親」象限へと一層押し込められるようになった。

 こうしたマクロな統治的視座から観察すると、超越×自閉=「世界only」の象限に位置する「息子」は今後はただ放置される。加えて幼少期から、超越方向を理解しつつ社交方向に引き上げる「ヘレン」役がおらず、自閉する「息子」の数がひたすら増大するのは間違いない。

 彼らが「誰でもいい人」扱いで怨念を蓄積すれば、「誰でも良かった」と無差別殺戮に乗り出し得る。本作を物語的ではなく神話的に理解すれば、「ヘレン」になろうというミクロな希望と、「ヘレン」の枯渇で悲劇が多発するというマクロな絶望に出逢うことになろう。

【補遺:神話素の三角形への置き直し】

 先の図は一次近似。この図が正確だ。内在的に生きられることは、社交性を含意するか ら、内在的であることに自閉・社交の別はない。世界に開かれた超越的あり方において初めて社会との関わりが問題となり、社会に開かれた社交・閉ざされた自閉の別が生じる。

 但し、自閉するから社会の外(世界)に開かれるのか、社会の外に開かれるから自然にしていると自閉するのかは、分からない。後者の場合、社会の外に開かれつつ「なりすまして」社会の内をうまく生きる営みは、論理的には、意志を伴う再帰的選択であるしかない。

 この図でも、息子と母親の距離は遠く、息子と父親の距離は近い。なお、この種の三角図は、レヴィストロースが神話素の分析に於いて用いたものだ。有名なものが「料理の三角形」。クロード・レヴィ=ストロース『食卓作法の起源』(原著1968年)に詳しい。

■公開情報
『ニトラム/ NITRAM』
3月25日(金)全国公開
出演:ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ、ジュディ・デイヴィス、エッシー・デイヴィス、ショーン・キーナンほか
監督:ジャスティン・カーゼル
脚本:ショーン・グラント
配給:セテラ・インターナショナル
2021年/オーストラリア/英語/ヴィスタ/110 分/原題:NITRAM/日本語字幕:金関いな
(c)2021 Good Thing Productions Company Pty Ltd, Filmfest Limited

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