宮台真司の『ニトラム』評:無差別殺戮事件の背景を神話的に描き出した稀有な作品

宮台真司の『ニトラム/NITRAM』評

【同志を探し当てて一緒に屋上に昇る】

 さてそこから先が本作の肝。「横」でも「縦」でもない「斜め」の関係にあるヘレンは、そんなニトラムを一挙に救済する神話的存在だ。四象限図式で言えば、「タスマニアの宝くじ」の起業家で億万長者の彼女は、明瞭に、社交×超越=「なりすまし」の象限にいる。

 だから全てに於いて確信犯だ。社交的でありつつ社会に媚びない。だから逡巡いも衒いもなく世界に開かれる。ゆえに、ニトラムが社会から閉ざされていても、世界に開かれてさえいれば包摂する。二人でいればニトラムはヘレンの社交性に依存して社会を生きられる。

 彼女が彼を必要とした理由は、寂しかったからだ。世界に開かれた者は、世界を誰かと共有した時、実存として完結する。性愛ワークショップで「同志を地上で探し、一緒に屋上に昇って世界に開かれ、再び地上に降りて生きろ」と推奨してきた。ヘレンのエロスだ。

 ワークショップで語ってきた。性交はなくていい。「同じ世界」に入れれば散歩でいい。それが一つの風船に包まれた一体感を与える。性交するのは「同じ世界」に更に深く没入するのに役立つ場合だけ。実際ヘレンとニトラムは性交しない。そう、それでいいのだ。

 ヘレンは一緒に屋上に昇る同志を探していた。ニトラムはヘレンに見つけられた。彼女は自閉する彼を補完しつつ一緒に屋上に昇ろうとしていた(1stクラスの米国旅行)。ところが直前に事故死した。事故死の原因はニトラム。ニトラムは病室で発狂状態になるだろう。

 ニトラムが無差別殺戮へと暴走し始めるのはそこからだ。ヘレンが不在となれば、彼と社会を繋ぐものはない。ヘレンが不在となれば、一緒に屋上に昇って「同じ世界」をシェアする者もいない。全てから切離されたと感じたからこそ暴走した。本作が提示する仮説だ。

【本作が仮説と同時に提示した処方箋】

 政治経済的な背景は記さないが、かつての如き共同体が消えて久しい。過剰流動性の中で誰しも「誰でもいい存在」になりがちだ。そうした可換性を食い止める役割は専ら「個人に」委ねられた。社交的であれば済む訳ではない。それだけでは寂しいパリピになる。

 寂しさは尊厳を傷つける。だから人は二つのやり方でごまかす。第一は、孤独から退屈への変換。退屈であれば刺激で紛らわせられる。パリピの生き方だ。第二は、周囲は敵だらけだから敢えて一人を選ぶのだと合理化すること。これは多くの「お一人様」の生き方だ。

 後者は、生まれてずっと「誰でもいい人」として扱われて怨念を培った場合、不特定多数を「誰でもいい人」と見做し返し、「不特定多数を巻き添えにした自殺」を敢行し得る。それを僕らは既に多数の事件を通じて知っている(朝日新聞1月21日号での宮台論説)。

 「誰でもいい人」でなくなるとは? 「誰でもいい人」ではない存在として遇するとは? 若い人に尋ねられる。本作が答えだ。まず社会の外に開かれる。次に同志を探し「同じ世界」に入る。片方が社交的なら、もう片方は自閉的でも二人で「なりすまして」生きられる。

【視覚・聴覚的演出がもたらす神話性】

 本作の視覚的特異点は「目」だ。父親と息子ニトラムが同じ目になる瞬間がある。同じくヘレンとニトラムが同じ目になる瞬間がある。視線を交わすから同じ目になれる。自分で自分の目は見られない。だが想像的に同じ目になることを目指せば「同じ世界」に入れる。

 本作には劇伴が殆どない。それで僕らがどれほど登場人物に「なりきれる」ことだろうか。ジェド・カーゼル(監督の兄弟)の僅かな劇伴は、ミカ・レヴィに似て演出を感情的に補完せず、人々を社会の外からの鳥瞰に誘う。それで作品が社会を寓意する徴候になる。

 それに関連して、所々にドキュメンタリーと勘違いしそうな映像が挟まれる。花火で大火傷した幼少期のニトラムの映像然り。天井隅に設置された監視カメラの映像に似た室内俯瞰然り。実在の事件の物語的なぞりを超えて、僕らの日常を徴候的に指し示してくれる。

 ニトラムが無差別殺戮の決行に乗り出すラスト近くのレストランの場面。彼がいるのはかつて両親がヘレンに面会したテーブルだ。彼は父親がいた場所に座っている。撮影ボタンを押したビデオカメラが母親がいた場所の前に置かれる。その視界はかつての母親の視界と全く同じである。

 それを見た観客は「あっ」と思う。隠喩だ。父親に心を寄せるニトラムが、彼を管理し続けてきた母親に対し、無差別殺戮の場面を、ヘレンが座っていた今は空白の場所越しに、見せつけようとしている。僕らはそこから何かを感じざるを得ない。そう。四象限図の神話的な配置上のダイナミズムだ

 視覚的・聴覚的手法が示すように、本作が提示する仮説は物語の追尾だけでは理解できない。四象限図式で示したように、異なる方向から世界を眼差す実存的な多世界性ーー人類学では多自然性というーーを隠喩的に理解する必要がある。それが神話的な理解である。

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