『エウレカセブン』とは何だったのか 『EUREKA』PVに欠けている点から紐解く
11月26日より劇場公開される『EUREKA/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』。2005年に放送開始したテレビアニメ『交響詩篇エウレカセブン』(以下『エウレカ』)のリブート企画として2017年にスタートした『ハイエボリューション』(以下『ハイエボ』)3部作のラストを飾る作品だ。しかし公開されているPVから受ける印象はオリジンたる『エウレカ』のパブリックイメージとは大きく隔たりがある。逆にいえば、この隔たりについて正確な認識を得ることで、シリーズ全体を一望の下に収めるひとつの視点を得ることができるだろう。
圧迫感を醸し出す暗めの色調で、無骨なロボット兵器による地上戦がクローズアップされる『EUREKA』のPV。それとは相反する『エウレカ』のパブリックイメージとは、「青空を駆ける開放感」である。これを体現しているのが「リフティング」というエクストリームスポーツだ。同作中において大気中に漂っている「トラパー」という未知の粒子が生み出す波を、特殊なボードを使ってサーフィンのように乗りこなす競技である。主人公たちの属するゲリラ組織・ゲッコーステイトVS軍という「戦争もの」としての側面は当初からあったのだが、その空中戦もこの「リフティング」の延長線上で行われるのが、それまでのいわゆる「ロボットアニメ」とは一線を画していた。
サーフィンやスノーボードを経験したことがある方ならわかると思うが、気持ちよく滑れているときには、波や雪面と一体となるような感覚を味わうものだ。自然を「支配」しようとするのではなく「対話」しようとする感覚が大切で、その助けとなるのがボードというインターフェイスといえる。そしてこのインターフェイスという概念は、ヒロインであるエウレカにも及ぶ。彼女は惑星に根を張ったサンゴ型生命体「スカブコーラル」が人類とコミュニケートするために遣わした対人インターフェイス「コーラリアン」であり、ゲッコーステイトが軍と争っているのもこのエウレカの処遇をめぐってのことなのだ。一方、主人公・レントンにとってのエウレカはそれ以前に、未知なる世界へのインターフェイスとなる存在でもある(いわゆるボーイ・ミーツ・ガールの図式)。さらに言えば、レントンとエウレカがタンデムする人型ロボット・ニルヴァーシュ(正確にはLFOと呼ばれる作中ロボット全般)も、エウレカと同様の出自を持っている。つまり、レントンがニルヴァーシュを駆りトラパーの波を自在に乗りこなせるようになることと、エウレカとの交流を深めること、そして人類とコーラリアンが対話を果たすことはすべて相似形をなしており、そこには「インターフェイス」を介した「対話」という問題系が貫かれているのだ。
そしてこの問題系をアニメーションとして結実させているのが、「流体」のイメージである。トラパーの波を滑るリフティングは、緑色の滑らかな軌跡をもって描かれるし、元はサンゴ型生命体から生み出された存在であるエウレカは、人間との対話の(不)可能性をめぐる物語が終わりに近づくにつれて人の形を保てなくなり、緑色をした液状の姿へと還ってしまう。憧れの象徴としての青空や、「異質なもの」との対話を媒介するものとして流体のイメージが強調されており、これは「人類の敵」という固定的な枠の中にスカブコーラルおよびコーラリアンを押し込めようとする軍の思想と対置させられる格好となっている。
ここには、国内アニメーションのある系譜を見出すことができるだろう。「飛空のボーイ・ミーツ・ガール」とでも名付けるべきその系譜は、空中を自由落下しながら、少年少女が互いに手を伸ばすシークエンスを象徴的なイメージとして持つ(『エウレカ』では3期のOP映像などを参照)。念頭に置いているのはたとえば『天空の城ラピュタ』や『天気の子』といったタイトルだが、先に述べた「流体」のイメージを重ねるならば、『ラピュタ』において飛行石から溢れる光が揺らめく水のようにアニメートされていたことや、『天気の子』において陽菜が「晴れ女」の力を使いすぎた結果、透明な水のような姿に変質してしまったことも思い出されるはずだ(さらに言えば『ラピュタ』のロボットは『エウレカ』と同様に未知の文明とのコミュニケーターとして位置づけられているし、『天気の子』で空から落ちてくる水の魚(?)は『エウレカ』においてレントンがトラパーの波に上手く乗れたときに現れる生物「スカイフィッシュ」を連想させる)。少年が少女と出会い、破滅的な「世界の終わり」に臨むという物語類型は2000年代以降「セカイ系」とも呼ばれるようになったが、このように射程を広くとれば(むろん『ラピュタ』は「セカイ系」という言葉が生まれる以前の作品である)、破滅の一歩手前で少年少女の間を媒介する、大気や水の物質的な存在感が前景化してくるのである。