濱口竜介が描いてきた“わかる”感覚の特別さ 『ドライブ・マイ・カー』を起点に紐解く

濱口竜介が熱心な観客を獲得してきた理由

 『ドライブ・マイ・カー』はカンヌ国際映画祭において、日本映画初となる脚本賞ほか、計4冠を獲得し、それに続くオムニバス作品『偶然と想像』ではベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞。いま、濱口竜介が同世代の国内の作家でも随一のグローバルな評価を獲得していることに異論を唱える人はいないだろう。

 濱口は前述の二作に留まらず、演技未経験者を起用した『ハッピーアワー』、震災をテーマにしたドキュメンタリー三部作、平野鈴ら制作の演劇と映像を組み合わせた『親密さ』など、特異な作品を積み重ねてきた。なかでも最新作『ドライブ・マイ・カー』はもっともバランスに優れた傑作で、濱口竜介のイズムが詰まっていると同時に、初めての鑑賞に適した作品ではないだろうか。

 濱口作品には熱心な観客が居る一方で、「ピンとこない」「よくわからない」という声もある。筆者は熱心な観客の一人として、本稿でその魅力を解説してみたい。

濱口作品に通底する「わかる」感覚、そのダイナミックさ

 濱口竜介の作品を観る上で最も重要なキーワードは、「わかる」だ。誰かのことが「わかる」、あるいはそれを通じて自分のことが「わかる」。濱口作品ではいつも、「わかる」感覚の特別さ、ダイナミックさを描き出そうとしている。

 まず、「わかる」の前段階で、わかりあえない障壁が示される。障壁の内容はといえば、「初対面だから」、「立場が違うから」といった普遍的なものから、「重大な秘密を隠している」、「言葉の壁」、「手話がわからない」など、その関係に特有のものまでさまざまだ。一般論で考えると、「わかる」ためには障壁がないほうがよさそうなものだが、濱ロ作品においてはわかり合えない障壁こそ重要で、それを乗り越えたときに初めて「わかる」。そしてその決定的な遷移をカメラに捉えようとしている。濱口作品における「わかる」は静的な状態ではなく、動的な感覚なのだ。

 「わかる」といってもいろいろなバリエーションがあるが、本稿がテーマにしている「わかる」はどういうものか。

 それはたとえば、「友人と朝まで話し込み、深いところまでわかり合えた気がしたが、ひと晩経つと語り直すことすらできず、思い出せなくなっている」というような例が理解しやすいだろう。そこにあるのは公式や定理のように説明可能で、ポータブルな理解ではない。誰かと誰かの間で絡まりながら発生した、不安定な共振である。

『ハッピーアワー』(c)2015 神戸ワークショップシネマプロジェクト

 もう少し濱口作品ならではの例で掘り下げてみよう。演技未経験の四人を主役に据えた傑作『ハッピーアワー』では、最初のシーンを見た多くの観客が、四人の演技をぎこちなく感じるだろう。セリフは棒読みで、見ていてどこか落ち着かない。

 だが、ストーリーが進んでいくほどにぎこちなさを意識しなくなり(注:最初のシーンの撮影時から徐々に演技力が向上している、という見方も可能だが、濱口監督はインタビューで、最初のシーンは撮影開始から3、4カ月後に撮影されたものだと語っている。参照:NOBODY「『ハッピーアワー』濱口竜介インタビュー「エモーションを記録する」」)、演技がどうのという範疇を越え、彼女たちが登場人物そのものに見え始める。

 最初はどこか不自然で、馴染みのない存在としてあちら側にいたはずの彼女たちが、気づくとこちら側に立っているのだ。奇妙でどこか心地よいその移動こそが濱口作品の持ち味であり、映画を唯一無二のものたらしめている。

 もう一つ奇妙な話を付け加えたい。私の家には『ハッピーアワー』のソフトがあるが、もう一度はじめから再生してみると、4人の演技は不器用で棒読みに見える。彼女たちと同じ岸に立つには、もう一度そこからスタートする必要がある。

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