『ラーヤと龍の王国』にみたディズニーの変化 革新的な作品となった理由を解説
ディズニーによるファンタジックなアドベンチャー大作『ラーヤと龍の王国』。本作に驚かされるのは、ディズニーの劇場アニメーションとしての高い質を誇るだけでなく、近年のディズニー作品が現在急激に見せている変化を強く映し出す、興味深い作品となっていたからだ。ここでは、そんな本作『ラーヤと龍の王国』が、なぜ革新的な作品であり、そこにどのようなディズニーの変化が存在するのかを解説していきたい。
本作の主人公は、東南アジアをイメージした熱帯地方の国で、伝説の「龍の石」を守護している一族の娘ラーヤだ。ラーヤとその父親は、長年の間、互いに争ってきた周辺国の長(おさ)を集め、これからは手を取り合って融和しようと提案する。かつてこの地は、「クマンドラ」と呼ばれ、龍と人が調和しながら生きていた広大な地方だった。それぞれの国は、「龍の石」に秘められた力を狙い、争うことで分裂した「クマンドラ」の末裔たちなのだ。
しかし、融和を呼びかけたラーヤと父親の想いは裏切られる。各国の代表たちは、そこで「龍の石」を醜く奪い合って割ってしまうのだ。すると、封じ込められていた心を持たない魔物「ドルーン」が現れて、人々を襲い始めた。ラーヤを守ろうと犠牲になった父親をはじめ、「ドルーン」に触れられた人々は、次々に石へと変えられていく。そして、各国の長たちはそれぞれに「龍の石」のかけらを奪って自国へと逃走してしまった。
月日は流れて成長したラーヤは、長年の旅の末に、魔物を封じた伝説の龍シスーをついに探し出すことに成功する。ラーヤとシスーは、魔物の呪いに対抗できる龍たちの力を取り戻すため、「龍の石」のかけらを集める新たな旅に出発するのだ。ストーリーの基本的な設定は、一部で『DRAGON BALL』の初期の展開を想起させるように、各地でワクワクするようなアドベンチャーが繰り広げられる。そして、そのような内容がディズニーのテイストでハイクオリティに描かれるのが、本作の楽しいところだ。
なかでも、いくつもの個性ある国を表現するため、作品の全体を統括するデザインの中枢といえる“プロダクションデザイン”を、スタジオのなかでも圧倒的なスキルを持つポール・フェリックス(『リロ・アンド・スティッチ』)、コーリー・ロフティス(『シュガー・ラッシュ:オンライン』)ら実力者4人が手がけるという豪華さで、世界のどのスタジオも太刀打ちできないと言っても過言ではない、魅力的な作品世界をかたちづくっている。ディズニーならではの芸術性と職人性の高いレベルでの融合……。アニメーションのファンとしては、もうこれだけで本作を観る価値は十分にある。
だが、本作が革新的といえる点は、設定とストーリーの方にある。本作の脚本は、クイ・グエン、アデル・リムの二人が務めている上に、スタジオのスタッフたちや、異なる人種が住む都市の問題を描いた実写映画『ブラインドスポッティング』(2018年)の監督を務めたカルロス・ロペス・エストラーダを加えた、計8人。近年のディズニーは、このようにアイデアを膨らませるスタッフが複数クレジットされているが、本作は他の作品と比較しても人数が多い。そんな多くの手がかかっているストーリーが最初に伝えるのは、「なぜ世界から戦争がなくならないのか」という、現実の世界における根源的な問いへの説明だ。
ラーヤは子どもの頃から、周辺の国に住む人々は信用ならない敵だと思っている。「龍の石」を守る一族の娘として、そのような認識を持つことは当然かもしれない。だが、武術やサバイバル術を覚え、その達人である父親の裏をかくほどの成長を見せたラーヤは、“誠意を尽くし相手を信じれば分かり合うことができるはず”という、これまでの認識とは逆の教えを父親から授けられる。これは、ラーヤに力が備わったことを父親が認めたからこそ、その力を争いに使ってほしくないと考えたからではないだろうか。だが、結局は周辺の国の長たちは誠意を拒み、父親は石の姿となってしまうのである。
このような結果になってしまうのは、現実の世界の権力者たちが、往々にして自分たちの利益を優先させさたり、軍拡競争がいまも絶えないことなどから、われわれ観客にも自然に納得できる。本作の旅の中でラーヤは、他国の人々の強欲さに触れたり裏切りに遭うことで、世界に対して失望の念を深くしていく。しかし、一方で各地には話の分かる人間がいて、気のいい旅の仲間が増えていくという展開も起こるのである。このエピソードが示しているのは、“どこの国にも信用できる人間と信用できない人間が存在する”という、シンプルな真実である。