池端俊策による“本能寺の変”はどんな結末に? “視点の転換”がもたらした『麒麟がくる』の面白さ
「理想主義者」の光秀と「現実主義者」の秀吉
「王が仁のある政治を行う時に必ず現れるという聖なる獣、麒麟。応仁の乱後の荒廃した世を立て直し、民を飢えや戦乱の苦しみから解放してくれるのは誰なのか……そして、麒麟はいつ、来るのか?」――そもそも、それが本作『麒麟がくる』の物語であり、そんな「麒麟」を呼び込む真の英雄を探しあて、その者に忠義を尽くすことが、光秀の人生の目的なのだった。それは、織田信長ではなかったのか。久秀が光秀に問うた「覚悟」、そして帝と将軍から「期待」、さらには家康が訴えかける「思い」は、光秀自身が「麒麟」を呼ぶ者であることを意味しているのだろうか。
AWAITING KIRIN#麒麟がくる pic.twitter.com/bAfTnFi2zx
— 【公式】大河ドラマ「麒麟がくる」毎週日曜放送 (@nhk_kirin) January 24, 2021
第42回「離れゆく心」の放送開始直後、番組公式Twitterが「AWAITNG KIRIN」という言葉と共にアップした一枚の画像。それは、『麒麟がくる』のオープニングタイトルバックの一場面(鎧姿で森にたたずむ光秀の後ろ姿のシーン)に隠されており、いよいよこの回のオープニングより、まばゆい光を放ちながら徐々にその姿をあらわにしてゆく「麒麟」のモデルとなった麒麟像であるという。
そんな「麒麟」を自らのもとに呼び込もうとしているのは、無論光秀だけではない。その筆頭は、やはり光秀の同僚でありライバルでもある羽柴秀吉(佐々木蔵之介)になるだろう。本作においては、終始ひょうげた様子を見せながら、その奥底にギラリと光る野心を覗かせる不気味な人物として描かれている秀吉。そう、平蜘蛛の一件を信長に報告し、光秀と信長の関係性にさらなる亀裂を入れようとしたのは、秀吉の仕業だったのだ。
「乱世を平らかにする」――その願いは同じでありながら、秀吉によって平らかな世とは、かつての自分のような貧乏人がいない世の中を意味する。そう、ある種の「理想主義者」である光秀に対し、秀吉は徹底した「現実主義者」なのだ。そんな彼にとって光秀は、もはや目障りでしかない。中国・毛利攻めの陣頭指揮を言い渡され、恐らく再び光秀と対面することはないであろう秀吉は、遠く離れた備中の地より、京の趨勢をどのように見るのか――否、どのような策を使って動かそうとするのだろうか。