『麒麟がくる』はまだ終わってほしくない “文学的な美しき物語”の試みを読み解く

『麒麟がくる』は“文学的”な美しき物語に

 NHK大河ドラマ『麒麟がくる』も残すところあと3回。大河ドラマの放送が年をまたぐのは異例なこと。かつて、7月から翌年3月まで放送した『炎立つ』(1993~94年)があったが、『麒麟がくる』は12月に終了予定がコロナ禍によって2カ月ずれた。開始時期がアクシデントによってずれたり、途中はさむはずの東京オリンピックが延期になったりと、予定外の出来事を乗り越え、予定話数を短縮することなく完走間近。最初から観てきた者にとってはいつもの大河以上に感無量の思いで最終回を待っている。いや、まだ終わってほしくないような気にすらなっている。

 そういった制作的な事情面のみならず『麒麟がくる』は極めて気になる作品である。これまでメインに取り上げられることのなかった明智光秀(長谷川博己)を主役に据え、「本能寺の変」で主君・織田信長を討った説のみが有名な人物の知られざる面を描く試みだったからだ。

 前半、歴史に記録がほとんど残っていない光秀(十兵衛)の青年期をふんだんに描いた。無名の若者のこころに芽生えた戦のない国を作るという目的を、斎藤道三(本木雅弘)、織田信長(染谷将太)、足利義輝(向井理)、足利義昭(滝藤賢一)、正親町天皇(坂東玉三郎)との出会いのなかで堅固にしていく光秀。彼のその想いは“麒麟”に見立てられる。“王が仁のある政治を行う時に必ず現れると言われる聖なる獣”がいつの日か現れることを夢に見て光秀は仕える対象を変えていく。

 道三の命令で鉄砲を購入に出かけた際に知り合った松永久秀(吉田鋼太郎)と彼が死ぬまで信頼関係を結ぶというオリジナルのエピソードによって、有名な久秀の茶器・平蜘蛛を「本能寺の変」に向かうきっかけを描いたことは興味深かった。

 天皇を頂点にして、朝廷、将軍家、武士という絶対的な力関係が崩れはじめ、戦国武将の力が強くなっていく時代。そこには経済の問題も関わっている。戦には潤沢な資金が必要で、武将たちは商人との関わりを深め、それによって商人の地位が上がっていく。西洋との関わりも重要で、序盤、光秀が手に入れた鉄砲は西洋のものであり、第38回では光秀が信長からもらった南蛮の服を着る場面もあった。そういった時代の変化から取り残されていくのが朝廷だ。

 『麒麟がくる』ではそのいささか寂しい朝廷に不変の美が残っていることを描いている。

 朝廷の貴族たちにも堕落した者たちはいるが、ただひとり帝だけは特別な存在。第27回で、朝廷から各戦国武将まで様々な人たちとつながっている旅芸人の女座長・伊呂波太夫(尾野真千子)が「世の中は醜いか美しいかどちらかだと」と言う。自分たちのような者が泥に塗れている分、帝は美しくあってほしい。惨めに壊れた御所の塀を直したいと切に願う伊呂波。この時代――すなわち16世紀、西洋では劇作家・シェイクスピアが活躍していて、その代表作『マクベス』の名セリフに「きれいは汚い汚いはきれい」というものがあるが、伊呂波はそうでなく、絶対的な美しいものを求めている。ドラマの後半戦、その精神こそが麒麟を呼ぶのではないかと思わせるように、正親町天皇が気高く輝く。

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