「新しい日常、新しい画面」第3回
『ヒプノシスマイク』の“明るい画面”はメランコリーを象徴? 現代アニメ文化における高さ=超越性の喪失
ポストモダン社会における「高さ」=「憧れ」の喪失
かつてのぼくたちは、自分たちが憧れる対象に対して、絶対的な「距離」(深さや遠さ)を実感することができた。しかし、そうした「距離」は徐々に相対的なものとなり、いまではぼくたちはもはやかつてあった「距離」の感覚すら失われている(そして「尊み」という言葉だけが実質を奪われつつ、インフレ的に使われている)。そして、『ヒプマイ』の画面の奇妙な「浅さ」は、どこかその本質を映し出している。
以上に述べたぼくの仮説については、じつは若い哲学研究者の岩内章太郎が、ほかならぬポストヒューマニティーズの哲学との関連においてより抽象的に整理している。
岩内は、かつての近代社会が維持していたひとびとの信念や行動を包摂する共通前提(「大きな物語」)が機能不全に陥ったポストモダン社会、さらにはぼくたちが生きるこの現代社会の特徴を、近代以前にあった「高さ」(超越性)と「広さ」(普遍性)が失われた時代だと簡潔に定義する。まず、注目すべきは、ここで岩内が神の存在に象徴されるかつての「高さ」(超越性)の感覚を、まさに「対象への憧れ」として説明している点だ。
神に限らず、一般に超越性が有する「高さ」は人間の実存にとって二つの意味を持つ。[…]もう一つは、高さへの憧れ。[…]一般に、憧れの対象は私たちの日常性から離れた高い場所に存在している。欲望の対象がロマン化されて超越的理想になる場合、私たちはその高さへの希求を「憧れ」と呼ぶのである。憧れの対象は、特別な対象であり、遠くにあって(まだ)自分には届かないが、手を伸ばして触れてみたいものとして現われる。[…]したがって、こう言うことができる。高さを失うことは憧れを失うことである、と。(『新しい哲学の教科書――現代実在論入門』講談社選書メチエ、18頁、原文の傍点は削除した)
ここで岩内がいう「高さ」(超越性)を、かつての文化消費にあった意味解釈の「深み」や、ファンがスターに憧れを感じ、希求する「高み」の感覚へと置き換えることができるだろう。そして繰り返すように、おそらくいまやぼくたちはその「高さ」を失い、「憧れ」を失ってしまった。
ニヒリズムの時代からメランコリーの時代へ
こうして近代以後=ポストモダンの社会が到来するというわけだが、示唆的なのは、さきほども少し触れたように、このポストモダン以降に生きる、「高さ」(超越性)を喪失したひとびとのリアリティを、岩内がさらに2つの段階に細かく分けている点だ。具体的に言うと、彼はそれをそれぞれ、(1)ポストモダン=「ニヒリズムの時代」と、(2)ポストモダン以後=「メランコリーの時代」と呼んでいる。
このうち、前者の「ニヒリズム」と規定づけられたポストモダンの特徴とは、「意味の無意味化の経験」だと、岩内は述べる。「一般に、ニヒリズムとは「世界の一切は無意味である」という主張を指すが、この主張の前提にあるのは、かつては何らかの意味があったがそれはすでに失われてしまったということである」、「ポストモダンとは、かつて揺るぎなく存在した「意味」(=モダン)を喪失するという経験だった。もちろん、ポストモダン思想は目の前で「大きな物語」(マルクス主義)が崩れていくのをただ眺めていたわけではなく、はっきりとした動機から積極的にそれを無化し否定した。だが、この無化し否定するという発想はニヒリストのものである」(前傾書、23、24-25頁)。
かつての「高さ」が失われてしまったポストモダンでは、まずその「高さ」の無化や無意味こそが虚無的に強調された。だが、さらにいまぼくたちが生きている現代――それを「ポスト・ポストモダン」とも「ハイパーモダン」とも呼んでもいいかもしれないが――は、そうではなくなっていると岩内はいう。少々長くなるが、引用しよう。
ところが、ニヒリズムとは別の形態の意味喪失が存在する。何らかの強い意味があってそれが無化される(あるいは、それを積極的に無化する)のではなく、そもそも強い意味それ自体を見出しにくくなっている状態――私はこれを「ニヒリズム」とは区別して「メランコリー」と呼びたい。ニヒリズムはつねに無化すべき意味を必要とするが、無化すべき意味すら見つからないのだとすれば、私たちは「欲望の挫折」(=ニヒリズム)ではなく、「欲望の不活性」(=メランコリー)を体験していることになる。[…]
ポストモダン以後、私たちは無化すべき対象を見つけることができない。私たちには社会への蔑みや嘲りもない。その気になればそれなりに人生を楽しむこともできるが、同時に、ある種の生きがたさのようなものも感じている。ならば、現代を生きる私たちの実存感覚は前の世代[註:ポストモダン]とは異なるものになっているはずだ。
ニヒリストは伝統的権威に対する「攻撃性」を持ち、あらゆるものは無意味かもしれないという「虚無感」に苦しむが、メランコリストにとっての問題は、欲望の鬱積から出来する「倦怠」と「疲労」、そして、いま手にしている意味もやがては消えていくかもしれないという「ディスイリュージョンの予感」である。要は、「何をしたいわけでもないが、何もしたくないわけでもない」という奇妙な欲望をメランコリストは生きているのだ。(前傾書、24-25頁、文を一部削除した)
かつてのポストモダニスト=ニヒリストは、「高さ」(超越性)や意味の喪失に苦しみ、あるいはあえて無化してみせた(欲望の挫折)。
しかし、今日のポスト・ポストモダニスト=メランコリストの実存とは、「高さ」(超越性)や意味の喪失という感覚そのものを実感できなくなっている(欲望の不活性)。いいかえれば、ポストモダン=ニヒリズムとは「高さ」(超越性)の喪失という時代だったが、ポスト・ポストモダン=メランコリーとは「『高さ』(超越性)の喪失」自体を喪失してしまった時代である。これを、社会哲学者の橋本努に倣って「ロストモダン」(『ロスト近代――資本主義の新たな駆動因』)と呼んでもよいだろう。
したがって、そこでは高さも低さも、また遠さも近さもない、底抜けに明るく浅い、フラットな「倦怠」と「疲労」の気分(「何をしたいわけでもないが、何もしたくないわけでもない……」)だけが残される。以上が、岩内の整理である。