宮台真司の『TENET テネット』評(前編):『メメント』と同じく「存在論的転回」の系譜上にある

「ループ」によって支えられる世界観 

宮台:テクニカルな知識ですが、第一に、「順行世界」から「逆行世界」を見る場合は逆回しに見えます。第二に、「逆行世界」から「順行世界」を見る場合も逆回しに見えます。第三に、「逆行世界」から「逆行世界」を見る場合は逆回しになりません。車に喩えます。「逆行世界」で車が前進すると、「順行世界」で後進して見えます。なぜか。

 「逆行世界で車が前進する」とは、「逆行世界の過去=後方向にいる」&「逆行世界の未来=前方向にいる」です。然るに、順行世界と逆行世界では未来と過去が逆転します。だから、「順行世界の過去=逆行世界の未来=前方向にいる」&「順行世界の未来=逆行世界の過去=後ろ方向にいる」。つまり、順行世界では、車が前方向から後ろ方向に後進するわけです。

 今の説明で「順行世界」と「逆行世界」という言葉を入れ替えれば、「順行世界」で前進する車が「逆行世界」で後進するのが分かります。つまり「順行世界」と「逆行世界」は対称です。それが物性物理の時空です。でも統計熱力学の時空では対称性が崩れます。例えば、「順行世界」での内燃機関は酸化=エントロピー増大=無秩序化を使うので、「逆行世界」では機能しません。ただし「逆行世界」の全ての事物が反物質であれば、対称性が回復して問題はクリアできます[正確には、そう主張する学説がある]。

 だから、映画ではそうした設定です。「回転ドア」を通ると、正物質が反物質に変わります。でも、「順行世界」の車も「逆行世界」の車も、同じ正物質の地面と正物質の空気中を走り、同じ正物質の空気を使います。ならば、「逆行世界」の車が正物質の地面と正物質の空気中を走った瞬間に、広島原爆の数億個分のエネルギーを出して対消滅します。つまり地球が消滅するほどの大爆発を起こします。

 だから、カーチェイスを見た瞬間に「ありえない設定」だと分かります。ありうるとすれば地面が正物質でも反物質でもない「中物質」でできている場合です。同じことはヒトにも言えます。「順行世界」と同じ空気を「逆行世界」のヒトが呼吸した瞬間に大爆発します。だから空気も「中物質」です。同じ理由で「逆行世界」のヒトが「順行世界」で着用する防護服も「中物質」でできています。

 でも、「中物質」は理論的に存在できず、観測的にも存在しません。だから、徹頭徹尾「ありえない設定」なのです。そんなことは当たり前で、物理学的にあり得るかという問答は無意味です。そうではなく、「順行世界」と「逆行世界」の間に物性物理が前提とするような対称性が存在するとしたら……という反実仮想によって成り立つ世界を想定した映画だと考えるべきです。

 こうして全ての謎解き問答をクリアできます。実は問題はそこから始まります。そこから始めないと、作品の本質をカスることすらできません。ノーラン監督は『TENET』のインタビューで、15年前に着想したと言います。つまり『メメント』(2005)の制作時です。とすると、彼にとっては謎解き問答なんてどうでもいいことがますます分かります。

 「順行世界」「逆行世界」に隅々まで対称性が存在する。これはヒトが順行から逆行へ、逆行から順行へと、自分が生きる「時間の矢」を変えられたら、どんな自明性が失われ、代わりに何が与えられるのかという問いを立てたということです。自分が「前向性健忘」になったら、どんな自明性が失われ、代わりに何が与えられるのか、という問いと同種ですね。

 対称性が存在するだけで、森羅万象が物性物理の決定論的時空になります。エントロピーや防護服云々はオカズに過ぎません。さて、決定論的時空があるとして、ニールという男が逆行して、名もなきプロタゴニストに会いに来て、順行に戻って行動を共にする。まず、これに気付けるかどうかがポイント。逆行して過去に戻り、そこから順行できるのであれば、未来を変えられるじゃないか、という疑問が浮かぶからです。

 むろん変えられます。でも「変えない」んですよ。ニールは既に作られた歴史の上に出てくる未来から逆行してきた上で、順行する人間と共に「未来にあるはずの歴史」を「なぞるように作る」んです。そうしないと「未来にあるはずの歴史」が消えてしまうからです。つまり、歴史は一部の人間たちーーニールなどーーによる「ループ」によって支えられているのだというわけです。

 例えば、ニールがループすることで、歴史の時空が一部ループします。つまり、「一人の男が、予定されていた行動をなぞる」ことで、「あるはずの歴史を、歴史がなぞる」のです。ニールに呼び掛けられて、主人公も同じミッションに邁進することになります。その結果、この宇宙が一つの宇宙であり続け、パラレルワールド(平行宇宙)に分岐しないで済むのだというわけです。実に奇妙な話ですね。

関連記事