宮台真司の『TENET テネット』評(前編):『メメント』と同じく「存在論的転回」の系譜上にある

「捏造された記録 」への<閉ざされ>

ダース:つまり、ノーランが『メメント』でやりたかったことを、もっとお金を使ってやると『TENET』になる。『メメント』で描かれたアイデアをより練って、ある種の娯楽的な構造にきちんと落とし込んでいます。

 『メメント』は、妻を“殺害された”事件で記憶が10分しか保たない前向性健忘症になった主人公が、自分が残した記録をもとに“犯人”を追い詰めていくというある種のサスペンス・スリラーです。記憶はないが、この記録だけは絶対的な真実だという前提で、物語の3分の2くらいまで進む。主人公本人も、自分が残した記録は正しいのだと信じます。

宮台:そう。話の起点である妻の死から間もなく、主人公は直前の記憶を10分で失うようになり、それを補うために「事実の記録」を残すようになります。ここで究極のネタバレをすると、主人公は、実は自分が妻を事実上殺害したのたという「不都合な真実」を隠蔽すべく、前向性健忘症になって以降の「最初の記録」に、不記載と捏造を加えます。

 以降の記録は「捏造された最初の記録」の分泌物に過ぎないものになります。つまり、それ以降の全ての記録が「捏造された記録」の自己増殖になるという恐ろしい現実が描かれます。つまり、主人公は「捏造された記録」とその増殖物の内側に、<閉ざされて>しまったわけです。僕らの現実を考えるとき、これは極めてメタファリカル(隠喩的)だと思います。

ダース:ただ起点が間違っているというだけで、最初に捏造した記録のもとに行われているさまざまな出来事には、真実性があるんですよね。また、コメントがつけられたさまざな人のポラロイドが並んでいるなかに、自分が楽しそうに写っている写真が一枚あり、これには何も記録されていない、というのもポイントになっていて。

宮台;そう。自分を「捏造された記録世界」に<閉ざす>ことに成功するだろうという喜びのショット。重大な伏線です。この映画が2000年に撮られたことに、注意する必要があります。実はその数年前に、学問がそのことを明確に記しているからですね。今日の思想界隈における「存在論的転回」につながるスリリングな話なので、ざっと説明しましょう。

 90年代半ばにフランスの人類学者ダン・スペルベルが『表象は感染する』(原著1996年)を出します。表象とは記録のことです。人間は、主体(選択の起点)として記録を書き、それを引き継いでいるように見えるが、錯覚だ。実は、記録が、人間たちをシャーレの培地のようにして、自己増殖し、変異してきたのだ、と。

 加工品について、スペルベルと同じ図式で説明したのが、ブリュノ・ラトゥールの『虚構の近代』(原著1993年)です。人間は、主体(選択の起点)として加工品を製作し、それを道具として、再び主体となって更なる加工品を作るように見えるが、錯覚だ。実は、加工品が、人間たちをシャーレの培地のようにして自己増殖し、変異してきたのだ、と。

 これらの業績が「存在論的転回」と呼ばれる理由は明らかです。僕らは主観次第・主体次第でどうにでもなるような、人間中心主義的・相関主義的な世界を生きていないということです。世界に厳然と存在する加工品や表象の自己増殖や変異の歴史が、紛うことなく僕らを方向づけ、僕らがそれらによって導かれているという事実を指摘するからです。

ダース:メモも、日記も、公文書や研究論文もすべて人が書いた記録ですが、その記録を参照して、記録や記憶がさらに作られていく。

宮台:そう。ポイントは「未来が過去を前提とする」という時間の構造です。記録は僕らにとって「過去が与える前提」です。僕らがそれを真実だと思っても、所詮は思っているだけ。それが記録の定義(笑)。ならば、その記録を前提に、積み増すように更に記録を書き、結果として、記録が自己増殖して変異していきます。加工品も「まったく同じ」です。

 そうした学問業績を頭に置いて『メメント』を観ると、「最初に何が記録されたのかという起点次第で、記録増殖の歴史の時空がいかようにも作られ得て、そこに僕らが<閉ざされる>」という深い含意になります。深すぎて、今ある生活世界の中でこの図式を使うことはないけど(笑)、僕らが増殖した記録の時空に<閉ざされている>ことだけは分かるでしょう。

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