宮台真司の『呪怨:呪いの家』評:「場所の呪い」を描くJホラーVer.2、あるいは「人間主義の非人間性=脱人間主義の人間性」

【「忘れるな」から「思い出すな」へ】

 当時のコメントが、呪う人や動物をモチーフする「JホラーVer.1」と場所や時空をモチーフとする「Ver.2」の違いに重なる。Ver.1は「場所で忘れられた人や動物」に焦点を当て、「忘れるな」と呼び掛ける。『CURE』以降のVer.2は、よせばいいのに「ここは一体どこだ?」と知ろうとし、知ることから怖いことに巻き込まれ、狂うことで救われる。

 記憶の機能が逆転するのだ。共同体ベースの便益授受の場たる「生活世界」と市場&行政からなるシステムベースの便益授受の場たる「システム世界」を区別しよう。Ver.1は生活世界を忘れない方が=システム世界への適応を程々にした方が幸せなのにと示唆し、Ver.2は逆に、生活世界を忘れた方が=システム世界に適応しきった方が幸せなのにと示唆する。

 生活世界を「場所の場所性」と言い換えれば、映画に即して理解し易い。因みに人から場所へというモチーフの移動は日本映画に限らない。デヴィッド・ロウリー監督『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』(2017年)も、人の入れ替わりにも拘らず存在し続ける場所の力を主題化し、場所からの訴えを受信した男の「混乱を通じた救済」=イニシエーションを描く。

 さて『CURE』では抽象的な性質のみ描かれた「場所」に具体性を与えて観客に自分事化させる作品が黒沢清監督『クリーピー 偽りの隣人』(2016年)だ。映画史上初めて描いたのが「家屋の配置がヤバい」「間取りがヤバい」のモチーフだ。犯罪が起こる「場所」に共通の性質があるとする。忘れられた人や動物に由来する地縛霊であれば凡庸だった。

 『クリーピー』『呪いの家』に共通して、鍵になる家屋は化物屋敷のような古いものではない。そこがポイントだ。80年代後半はテレクラナンパ、90年代前半は売春フィールドワークで全国を回った時の話。80年代末に日米構造協議で日本はアメリカ産木材100%の2×4(Two-by-four)住宅の解禁を飲まされ、以降新しい様式の住宅街が開発されていった。

 当時の地方郊外の国道を走るだけで、旧来の和風軸組建築の瓦屋根集落と、新種の2×4集落の、佇まいの違いに打ちのめされた。前者には生け垣・庭・縁側・路地・井戸端があるが、後者にはない。同じ集落とはいえ動線が全く異なり、ゆえに住民らがトゥギャザであり得る蓋然性も全く違う。そこで感じた印象と同じものを、2つの映画が描いている。

 構造協議では大店法緩和も飲まされ、地元商店街風化の要因になった。それに先立って「新住民化」による環境浄化で公園遊具撤去が進んだ。新住民とは地元の何たるかを知らぬ住民のこと。転入者や「一つ屋根の下のアカの他人化」で疑似単身者化した旧住民子弟からなる。60年代の団地化から在るが「新住民化」という場合は新住民が多数派になることを言う。

 『呪いの家』に出て来る女子高生コンクリート詰め殺害事件は、共産党員夫婦が1階に住む家の2階で40日間も女子高生を暴行し続けた少年らが、彼女を殺してドラム缶に詰めた事件。同じ1989年に起きた東京都五日市町(今のあきる野市)の連続幼女誘拐殺害事件は、家族が同じ敷地に住む離れのプレハブで、誘拐殺害した幼女たちを犯人が切り刻んでいた事件だ。

 共に「一つ屋根の下のアカの他人化=疑似単身者化」を示す。少し前の1984年には国道脇に林立するロードサイドショップでNIES諸国(台湾・韓国)製のテレビが1万5千円で売られて「テレビの個室化」が進み、1985年の電電公社民営化(NTT化)で電話が買切制になって多機能電話が売られて「電話の個室化」が進んで、「アカの他人家族」が量産された。

 90年代に入る前の段階で進んでいた「新住民化」の様相が分かるだろう。繫がりのない人間たちが集住するようになったのだ。一見平穏な住宅街でも昔の近隣関係も家族関係もない。だから共通感覚も共通前提もない。それで「危険」な公園遊具撤去運動が起こった。かくてブランコの立ち跳び・座り跳びも、花火の水平撃ちも、焚き火も軒並みダメになる。

 それ以前から各自治体の火災予防条例で焚き火は禁止だったが、誰でも焚き火をしたし、消防に通報されることもなかった。同じ流れで80年代には組事務所排斥運動が起こり、1992年の暴力団対策法施行に繋がった。ビジネスヤクザ化した組がどんどん共同体外に押し出された。かくて共同体のセーフティネットとしての機能を失う。それには2側面があった。

 第一に、当時はストーカー法ができる以前で、警察はストーカー事案に取り合わず、組に相談する他なかった。関西では警察に相談すると「警察じゃ無理だね」という物言いで暗にソレを示唆されもした。ことほどさように表共同体と貼り合わさった裏共同体が組だった。たとえば前科者だったりで表共同体に居られない者が、三下(電話番や運転手)として抱えられた。

 第二に、ケツ持ち役がいなくなって地元の非行少年に紐が付かなくなる。その悲劇的帰結が女子高生コンクリート詰め殺人だった。かつて少年の暴走族(ゾク)にもチンピラ(ヤンキー)にもケツ持ちヤクザがいて「やり過ぎんなよ」と掣肘した。それがいなくなって少年集団非行が暴走し始めた。「適切な非合法」が「不適切な非合法」になったのだ。

 『クリーピー』『呪いの家』が描く不可視の「歪んだ街の歪んだ家」が象徴するものが分かろう。そこには人間関係がないので空間だけが「物を言う」。侵入し易い家とか、人から見られずに何かできそうな家とか。或る種の本末転倒化としての動物化が起こるとパラフレーズもできる。それらこそが90年代末以降の「JホラーVer.2」が象徴するものだ。

 『クリーピー』冒頭、引っ越してきた主人公夫婦が近所挨拶に行き、怪訝な顔をされる。全く同じ経験を十五年前に僕も世田谷区で経験した(映画の舞台は日野市)。他方、元警察官で今は大学教員をする主人公(西島秀俊)が務める大学がガラス貼りのオープンスペースだらけ。人と人が繋がれます的なタテマエを象徴する。それが実に効果的な演出だ。

 つまり「コイツらが住む場所がどんななのか分かってんのかよ」的に観客を挑発するのだ。同じ冒頭、若夫婦が荷解きしつつ「庭があっていい家ね」と会話する。それを継いで『呪いの家』では「同じ家」に転居して来る若夫婦が「いい家じゃないか」と会話する。むろん反語だ。「そこがどんな場所なのかちゃんと評価しているのかよ」と嘲笑するのだ。

 これは観客の一部への直接的批判だ。『クリーピー』ロケは日野市。都立大学がある八王子市の隣だ。公開当時、僕のゼミにはロケ地を実際に知る者もいて盛り上がった。1993年に都立大に赴任した僕は10年間ほど広範囲に散策したが、唐突に建設資材や重機が放置された空き地や新築直後に放置された空き屋があったりと、嫌な感じが漂う場所が目立った。

 1時間歩いても誰にも出会わなかったりする。その時に思った。昔ならそうした工事現場には土管があって子供たちの秘密基地だった。ウルトラマンの「恐怖の宇宙線」(ガバドンの回)がソレだ。藤子・F・不二雄は『オバQ』から『ドラえもん』までそうした子供の領分を描いた。昭和はまだそうした場所が活き活きとしたエネルギーの発生源だった。

 そこは「法外のシンクロ」が生じる時空だった。だが『クリーピー』の空き地は「シンクロが起きない法外」である。そこでは「法外=社会の外」の意味が変じているのだ。「社会の外」に濃密な時空が拡がるか、虚空が拡がるか、という違いである。まさにその違いが「JホラーVer.1=外を忘れるな」と「Ver.2=外を忘れろ」との違いに対応している。

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