ホアキン・フェニックスの瞳に取り憑かれた映画作家たち “銀幕の道化師”に成り得るまで

 白い塀に顔の下半分を遮られた一人の男の姿が映る。ヘルメットを被った頭部は隠され、観客の目線は否応なくその瞳に吸い寄せられることとなる。これはポール・トーマス・アンダーソンによる『ザ・マスター』(2012年)で、初めてホアキン・フェニックスがスクリーンにその姿を現すショットのことだが、おそらく画面がそう仕向けようとするまでもなく、なによりもまず観客はその瞳に惹きつけられてしまうだろう。同じくアンダーソンによる『インヒアレント・ヴァイス』(2014年)のラストショットにおいては、日の光が車中にいるホアキンの瞳を舐め回すように照射される。この光はまるで有機体のような動きを見せ、ホアキンの瞳もまた獲物を物色するかのようにその光をにらみつければ、生き物と生き物がじっとりと絡み合っているのかと幻視してしまう。異なる手つきによって、ホアキンの瞳をスクリーンに映し出そうとするアンダーソンもまた、その瞳に取り憑かれた多くの映画作家のうちの一人と言えよう。

『ザ・マスター』(c)MMXII by Western Film Company LLC.

 あるいは、イエス・キリストを演じた『マグダラのマリア』(2018年)では、瞳孔の開いたホアキンの瞳がクロースアップで象徴的に映し出される。まさにそれこそが特殊な力の源泉とでも言わんばかりに、緑がかった色彩の美しさは際立ち、ルーニー・マーラと肩を並べるホアキンが身にまとう神秘的なオーラは、この映画で頂点に達している。これまで映画に映し出されてきたホアキンの瞳は、そのなかにもう一つの“顔貌”を抱え込んでいるかのようであり、それが彼の演技を間違いなく重層的にしている。

『マグダラのマリア』(c)2016 Water Productions Limited and Spirit Film Holdings Pty Ltd. All Rights Reserved.

 そんな瞳の吸引力にいざなわれてか、ホアキンはきわめて泣く演技が多い。孤独な元軍人を演じた『ビューティフル・デイ』(2017年)では、ホアキンが一粒の涙を流した直後に銃で自らの頭を撃ち抜く衝撃の描写が続く。『裏切り者』(2000年)では、ホアキンの横顔を照らす暖色の光が消失し、顔の陰影のコントラストが強まった矢先に涙が流れ、照明の変化に合わせて涙の輝きの色も芸術品のように揺らめく。『リターン・トゥ・パラダイス』(1998年)では、ホアキンはマレーシアで麻薬に手を出した3人の若者のうち、現地で逮捕され絞首刑に科せられるルイスを演じている。弱々しくうずくまるルイスの背中のみを捉えたショットが劇中に何度か差し込まれるが、この背中を覚えている者であれば、『ジョーカー』(2019年)の、骨が皮膚を突き破ってしまいそうなホアキンの背中に経年を感じ取ることだろう。牢獄で死の淵にいるルイスは、顔は青白く、身体はやつれきっている。たゆむことなく祈りを捧げるルイスの生気を失った瞳から出る涙は、悲痛の表情のなかに溶けきり、もはや涙として視認することさえ難しい。あるいは、ケイシー・アフレックと組んで製作したモキュメンタリー『容疑者、ホアキン・フェニックス』(2010年)では、「自分で自分の人生を台無しにした」と何も知らなければ虚構なのか現実なのかわからないペテンにかけた泣きの芝居を見せてもいる。このように挙げてみただけでも、ホアキンの泣く演技はバリエーションに富み、彼は涙の成分を絶妙に配合しながら自在に操ってしまう。

 しかし、ホアキンの魅力は演技だけに留まらない。彼はただそこに立っているだけで、奇怪さを滲ませ、不穏さを漂わせ、異様さを滾らせる、稀有な存在感を放つ役者でもある。そのためか、一見してラブロマンスのように見える作品であっても、一筋縄ではいかない作品も多い。『トゥー・ラバーズ』(2008年)では、その映画タイトル通り、2人の女の間を揺れ動く双極性障害の男を演じている。2人の女はそのまま男にとっての「現実」と「夢」を体現し、愛の二面性が主題とされる。隔たった建物の窓越しに恋する者同士が言葉を交わす映画的なロマンティックさとは裏腹に、終始不穏な空気を漂わせているのはまさにホアキンその人であり、病んだ結末に両義性を含ませている。

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