【ネタバレあり】『フォードvsフェラーリ』がラストシーンで到達した“マン映画”からの解放
そうやって収斂されていくのは、シェルビーとマイルズ、ふたりの男が生きた“ひとつの世界”である。マイルズの影響によってレースのことしか頭にない息子が、あるエンジニアにレースの経験があるかと問う場面がある。当時は、現在と比べてレーサーに対する安全性が低かった。一瞬の判断ミスや、ちょっとした車体のトラブルが即死を招くことになる可能性が非常に高い危険な状況下で、極限的なスピードに挑むドライバーたちは、フォード二世がその世界の片鱗を体験しただけで泣きじゃくってしまうシーンが象徴していたように、一般の人々からすると異次元の存在といえる。
経営や開発など、車に人生を懸ける人々であっても、一瞬一瞬に命を懸けられる人間と、そうでない人間の間には、高い壁があるのだ。本作のなかで語られる、車体の機能や安全面で不安のある当時のレース界で、レッドゾーンを踏み込んだ“7000回転の世界”を体験した者となれば、さらに限られることになる。それを経験したことのあるシェルビーとマイルズの繋がりは、戦場を経験した兵士たちが、「同じく地獄を見て死線をくぐり抜けた仲間同士でなければ真に分かり合えない」と感じる感覚に近いかもしれない。
エンジン、スキール、エキゾーストパイプから放たれる音を、マシンと一体化しながら自らの鼓動のように身体に感じているドライバーは、猛スピードのなかで逆に引き伸ばされゆったりと流れる時間のなかで、命を運命に差し出しながら、コース上に現れる“何か”を見るのである。それは、彼らにとって神の姿なのかもしれない。 ケン・マイルズが、夕闇のコース上で、その経験をうっとりとしながら息子に語るシーンは、本作でも最も美しく撮られている。
マット・デイモン演じるシェルビーの見せ場となるラストのシークエンスは、さらに素晴らしい。シェルビーはマイルズを亡くした後、彼の家を訪れ、妻のモリーに挨拶しようとする。おそらくは、ケン・マイルズの人生が幸福だったということを伝えるために。しかし、その内容がどうしても言葉にできない。心にあるものを口に出したとしても、それはケン・マイルズにしか理解できないだろう。だから、彼女とは離れた場所で声を交わさずに別れるしかなかった。
そこに現れた、マイルズの息子に対しても、彼との関係を言いよどんでいると、息子は、「パパはおじさんの“友達”だったんでしょ」と言葉を投げかける。息子もまた、“7000回転”の世界を知らない。しかし、父親があのとき語りかけた話によって、その世界は存在し、限られた者だけがそれを体験できることを知っているのだ。
そのときシェルビーは、ケン・マイルズとの出会いこそが、心臓病のためにあきらめた、第2のレース人生だったことに気づく。彼の死が、シェルビーの青春に終わりをもたらしていたことに。そのことに気づいていなかったからこそ、彼は事業に身が入らないまま半年を過ごしてしまっていたのだ。
目をつぶり、エンジン音に耳をすませながら、自分にとって最も輝かしい時代へと別れを告げるシェルビー。遅かれ早かれ、いつかは誰もが経験する一瞬である。世界は美しい。そして同時に残酷なものである。この瞬間、本作は“マン映画”から解き放たれ、誰もが共感することのできる普遍的な力を持つことになる。ここに到達したことで、本作は身勝手な男の狂騒だけには終わらない、力強さを得た映画になったのではないだろうか。
■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter/映画批評サイト
■公開情報
『フォードvsフェラーリ』
全国公開中
監督:ジェームズ・マンゴールド
出演:マット・デイモン、クリスチャン・ベール、ジョン・バーンサル、カトリーナ・バルフ、ジョシュ・ルーカス、ノア・ジュプ
配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン
(c)2019 Twentieth Century Fox Film Corporation
公式サイト:http://www.foxmovies-jp.com/fordvsferrari/