菊地成孔の『アベンジャーズ/エンドゲーム』『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』評: <第二経済>としての<キャラクターの交換>を前に我々ができることは、<損得>だけである

さて、いきなりだが、サノスによって

 そんな地球人は、半分にされた。経済も宗教も政治さえもキャラクターの交換行為に支えられているようなダメな生物は、まず半分にすべきだ。サノスが正しい。いや、正しくない。どっちだろうか? 消されたヒーローたちは、次作で戻ってくると考えた人、戻るにしても、様々な複雑なドラマがあると考えた人、誰が正しかったのだろうか? 否、それ以前に、「予想が当たる」事の意義は、ユニヴァースの中ではどれほどの意味があるのだろうか?

 『エンドゲーム』以前から、アヴェンジャーズは総力戦であることが強調されすぎ、スペクタキュラーの表現が、画面を関ヶ原化(もしくは100人サッカー化。あるいは最も詰まらない呼称として「戦場化」でも良い)される方向に発達、定着してしまった。筆者が身震いして興奮したのは最初のアヴェンジャーズだけである。

 あの作品は「ニューヨーク市街が瓦礫の山と化す」という、9/11PTSDを、アメリカン・タフガイ型のコミカル&シリアスのトーンで祓い清めた大傑作である。アメリカ人が合戦を描くと、南北戦争からの内なる鬱性が噴出し、アヴェンジャーズの最大の魅力だった、アメリカン・タフガイ型のユーモアが、商品価値として他のコミカル系作品に計画的に再配置され、アヴェンジャーズの総力戦=合戦の魅力が、アメリカが経験したあらゆる戦争PTSDの総合体である「悲壮感」と交換されてしまった。勿論、アメリカ人が「戦争」を悲壮に描くことが大好物なのは言うまでもない。

 とこれは、あくまで筆者の個人の好みである。

 個人の好みならいくらでもある。あのキャラクターにもっと出て欲しかった、ああして欲しかった、こうして欲しかった、あのキャクターは要らない。この設定は納得しかねる。スカヨハの登場シーンが少ないのは、減量に失敗したからかも。ダウニーJr.がもう辞めたいと言い張るのと、それを準備してやる事のせめぎ合いはどうなのだろうか? いやそんなことはどうでも良い。ここの設定はすごい。このVFXのセンスはヤバかった。個人の好みはシンプルで早く、そして強い。

 しかし、我々が行なっているのは、映画の鑑賞の形をとった、キャラクターの交換、つまり経済行為なのである。個人の経済行為が批評という立場に立てるだろうか? 筆者の考えでは立てない。

 MCU作品のカスタマー評価を見ると、必ず、綺麗に賛否が分かれている。日頃、熱烈なカスタマーであろうと、気に食わなかったら「自分は気に食わないが、作品としては良いだろう」といった忖度は、行われないようでもある。

シンプルな話、これはどうしてだろうか?

 批評家にも一般ユーザーにも評価基準がない前衛的な作品であるならば賛否両論はわからないでもない。しかし、こんなに明確な、世界で一番金が動いているトップの娯楽が、必ず激しい賛否両論に晒されるのは何故だろうか?

 それは、冒頭にある通り、これが個人的な経済活動であるからである。我々は、個人的な経済活動の範疇では、損得しか選択肢がない。利益が出た人間は、作品が気に入った人間で、損失が出た人間は、作品が気に入らなかった人間だ。経済学的に言って、両者に上下関係はない。ただ、その時その時、損得が生じるだけである。我々は次に出る目を直感で捉え、運の流れを水平的に感じてゆく博徒ではなく、予想をし、掛け金を払い、儲けが出ようと出まいとその事を評価に回し、分析結果をまとめなければ事が終わらないトレーダーである。

 この一連のトレーディング行為の中で、批評という側面は去勢されている。というか、経済活動、その結果を批評しようとする人間の愚かさと徒労感は、どなたでもご存知のはずだ。恐慌も、その鏡面であるバブル的な好景気も、批評しようとする事自体が、言ってみればダサい。それは天候を批評しようとすることと似ている。ましてや、キャラクターの交換(それは、膨大な量の「設定に対する知識」の交換も含んでいる)は、強く共有的に見えて、実のところかなり個人的である。

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