樹木希林の名言集がベストセラーに 演技と実生活に見る、異質なものを同居させる力量

 そうして悠木千帆の名が世間に浸透したというのに、彼女は1977年にチャリティ・オークションで芸名を売り、樹木希林に改名してしまう。すぐ後にはドラマで共演した郷ひろみと「お化けのロック」(1977年)、「林檎殺人事件」(1978年)をおどけたしぐさでデュエットして話題になったし、新しい芸名もすんなり認知された。そして、1981年には勝手に離婚届を提出した内田に対し無効を訴え、婚姻関係の継続を主張したあの騒動が起きたのである。後にはある種の美談みたいに語られた2人の関係だが、騒動になった当時は、すでに破綻している結婚をなぜ維持しなければならないのか、わけがわからないものだった。この頃の樹木は、コミカルだが変わり者といったイメージだった。トリッキーな存在だったのである。

 彼女が1978年から長年出演したフジカラーのCMシリーズでは、岸本加世子が写真写りに関し「美しい方はより美しく、そうでない方はそれなりに写ります」と樹木にいったセリフが流行語になった。このセリフが象徴的だが、樹木はテレビドラマや映画において「美しい方」を脇役として盛り上げる「そうでない方」のポジションだった。吉永小百合が薄幸の芸者、樹木が不器量な年増芸者を演じた『夢千代日記』(NHK/1981年から放送)が、代表例だろう。ヒロインが原爆に被爆した過去を持つ、重いテーマを含んだドラマであり、樹木も笑いを誘うだけでなく哀しみをたたえた役柄だった。

 また、ふり返れば、1986年に放映されたNHK朝の連続テレビ小説『はね駒』への出演が、樹木の役者人生で節目になっていたのではないか。ヒロインの斉藤由貴が演じたのは、明治・大正期に新聞記者になった進歩的な女性。母役の樹木は娘を優しく見守りつつ、家族の大切さを説いていた。進歩的な考えに理解をみせながら保守的な態度を示すこの母親像は、晩年の樹木のイメージにもつながるものだ。

 歳を重ねるにつれ求められることも変わり、シリアスな演技へと移行していったが、そうなっても、どこかとぼけた感じ、変わり者のたたずまいは失わなかった。映画『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』(2007年)は、離れていてめったに会うことのないオトンとなぜかつながっているオカンの闘病に、息子が寄りそう内容だった。同作で樹木はオカンになり、彼女の若い頃を娘の内田也哉子が演じたが、『一切なりゆき』に「まさに、『私と也哉子と、時々、裕也だった』」という発言が収められているくらい、自身の家族とオーバーラップする物語だったのである。

 こうして樹木希林の歩みをたどり直すと、名言集や実生活にみられた進歩性と保守性の同居は、コミカルな変わり者であることとシリアスな演技の同居と呼応しているようにみえる。若い頃の『寺内貫太郎一家』では、老けメイクによるフェイクのおばあちゃんだった。それに対し、亡くなる3カ月前に公開された『万引き家族』では、大きな嘘を抱えながらも確かにつながっている家族のおばあちゃんだった。物理的なフェイクから、なにがしかの真実を含んだ嘘へ。演技のこの深まりは、樹木が自身のうちに異質なものを同居させる力量があったからこそ可能になった。そう思うのである。

■円堂都司昭
文芸・音楽評論家。著書に『エンタメ小説進化論』(講談社)、『ディズニーの隣の風景』(原書房)、『ソーシャル化する音楽』(青土社)など。

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